先ずは、下記の2記事をお読み頂きたい。
- 「容量」: かりんこ様「http://karinko.com/index.html」 (「ちりんのblog」KU。)
- 「カスガ先生の答えのない悩み相談室」 (「こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね」KU。) *1
さて。両記事で述べられている“泣いてしまったヒト”は、一方は作業療法士実習生で、他方は研修医な訳で、事情が違う、と突っ込まれてしまえばそこまでなのだけど、両者とも掛け出しの医療従事者、ということで一括りにさせて頂きたい。
で、一方は「泣いてくれるの、あなたくらいです。でも今は、それでいいと私は思います。」一方は「鬱陶しい奴だなあ」。…単に立場の違いによる考え方の違いだろうか? それとも実習生のうちは泣いていいけど、臨床に出たら泣くな、ということだろうか?
結局、この違いの原因は春日先生の仰るとおり、“「相手のため」と「自分のため」”の違い、なのだろう。しかし、先生の仰るような“相手に対するコントロール願望”というのは、初めて読ませて頂いた時から、どうにも腑に落ちなかったのだ。
私も根はかなりの激情家だと自分では思っている。理性では結論は嫌と言うほど理解していても、泣きたくなることだってあるだろう。それは相手をコントロールしようという願望から感情が発するのではない。ただ私が悲しいから泣くのだ。——そして困ったことに、これが「鬱陶しい」原因なのだと、私は思うのだ。
つまり、上記の研修医の様に感極まって泣いたところで、何の足しにもなりはしないことが問題なのだ。「コントロール願望を満たそうとする」から駄目なのではない。結局のところ、相手のために泣いているように見えて、実のところ「自分のために」しか泣いていなかったのだ。だから「泣いてる暇があったら、さっさと仕事しろ」と突っ込まれる。
OTの実習生は違う。患者の話を聴いていて、もらい泣きしてしまっている。こちらも“感極まって”なのには違いなかろうが、相手に共感して泣いているのだろうし、それにかりんこ様も指摘しているように「あなたがそうやって、自分のために泣いてくれたこと、きっとハタノさん嬉しいと思いますよ。」…実際はどうだか検証のしようもないけど、少なくとも、相手の為になっている可能性が十二分にある。
昨日のDr. Mの言葉だが、「自分があるうちは2流。真の生き様は,己を律するところから始まるのである。」また春日先生曰く「『相手のため』と『自分のため』とを混同するな。」何時だって、自分の為に感情を動かしてはならない。感情が動くのは常に相手の為でなければならないのだ。そうでなければ「気持ちは分かるが今は邪魔だからしまっとけ」
——そういう職業なんだと、今の私は思います。
*1:2005年5月27日より再掲