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“衆生救済”のアンチテーゼ

Dr. yamakawもそうだが、小児科医は“弱者排斥”の概念に対しては、その片鱗に対しても、えらく嫌悪感を呈するようである。…当然と言えば当然だろう。子供はただでさえ弱いのに、さらに疾患という文字通りhandicap(身体上・精神上の)障害、不利な条件をもつ子供達を相手にしてるのだから。
ただ私はこの類の反応には、全面的には賛同しかねる、というスタンスをとるのは、これまでのここの記載でも述べたとおりである。(2005年8月25日「理想を抱いて溺死しろ」2005年2月6日「予防論」など)


Mari先生の話の中にある「プランターの中の苗の間引き」の話に則るならば、間引かなかった場合の結末を、私は知っている。というより、小学生の段階で誰しも一度は経験していると思うが。

小学生の時に、アサガオの鉢植えを育てたことが誰しもあると思う。そのとき、一つの鉢に種を何個植えたか覚えているだろうか? 普通は、中央部に指先で穴を3つほど空けて、それぞれに種を一つずつ植える。勿論これは、偶に芽の出ない種があるからこうするのだが、大抵はそんなことは起きなくて、一つの鉢植えから芽が3本、しっかり生えてくる訳だ。で、双葉も出てある程度育ったところで、先生からこう言われる訳だ。「一番育ってるのを1本残して、他は抜きましょう」。幼い私は、折角全部生えたんだから全部育てりゃいいじゃないか、とも思ったが、とりあえず先生の言うことを聞いていた。が、そう思ったのはどうも当時の私だけじゃないようで、どうしても抜きたがらない奴が何人かいた。先生は無理に抜かせるようなことはしなかった。とりあえず、それはそれで育ててごらんなさい、と。
それから1・2ヵ月後、ぼちぼちアサガオも大きくなって、きれいな花を咲かせる頃。ほとんどの鉢のアサガオはたくさん花を咲かせてるのに、どうもやたら花の少ない鉢がある。よく見てみると背丈も低く、葉の色もなんか悪い。というか、葉っぱ同士が重なり合ってごちゃごちゃしている。——そう、あの時“間引き”をしなかった鉢である。無理もない。元々至近距離で生えているのだから葉が重なって日当たりの悪い葉が生じ、また鉢植えという狭い環境の中では、土壌の養分が足りなくなって、成長不良を起こしていたのだ。“間引き”の威力をまざまざと見せ付けられたような気がして、幼心には酷く衝撃的であった。

選択圧がかかっているのが自然の摂理だ。寧ろそれが自然なのだ。しかしそれに“人間性”は抗った。「みんな幸せであればいい」と。それは美しく崇高な“理想”だ。しかし何かを為すにはそれ相応の代価が必要だ。その代価とは資源であり、力である。しかしその代価を準備せず、理想だけを唱えるなら、その代価のツケは周囲に及ぶ。——共倒れという、最悪のシナリオだ。

真に絶望した者は何もしない。本物の絶望は何も壊さない。誰も殺さない。
ただ己を滅ぼすだけだ。絶望する事は危険を振り撒かない。それは自己の責任の内で清算できる。
そうだ。
本当に危険なのは——全ての災厄と闘争を招くのは、
むしろ絶望しきる事さえ、成し遂げられなかった人間だ。
彼等は絶望しない。できない。その覚悟がない。
それ故に動く。がむしゃらに動いて周囲を巻き込む。
絶望を恐れるあまりにがむしゃらに突き進み、しがらみを断ち切り、
孤立を深め、立ち止まって己の進路を確かめる事もなく——
そうして挙句にはしばしば多くを道連れに自滅する。

榊一郎『スレイト・ジャケット』

理想を掲げて現実を直視出来ない輩は、いつかその自身の理想に焦がれ死ぬだけでなく、周囲まで類焼させる。弱者を排斥しに掛かる現実の理不尽も、周囲を引きずり込む無謀な理想も、両者とも私の、敵だ。
理想は“癒し”なんかじゃない。両刃の剣と同じ“概念兵器”の一つだ。我ら、その担い手を志す者。

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