ちょっと呟いてみる

日々の戯言、写真、旅行記、好きな音楽、格言、Minecraftプレイ記録

気持ちは分かるが邪魔だからしまっておけ

いやしのつえKU。思うところをつらつら。

主論

他者の願いを自己の願いで塗り潰していくのが人の営みだ。
聖杯戦争もおまえの人生も変わらない。
おまえはおまえの望むまま、気負う事なく勝ち抜くがいい。

TYPE-MOONFate/stay night

背景概念を陳述していたら飽いてきたので、背景概念は省略して。
「子供には一切責任がない」という点は激しく同意。但し、ここに“優しさ”や“人情”云々の話を展開するのは頂けない。また、これらの概念に引っ張られて“故意の不払い”の話がいつの間にやら“支払い能力の無い状況に対する公的支援”の話にすり代わっている。「『払えない親』と『払わない親』というは明らかに峻別されるべきです。」と述べられているが、ならば「真面目に払っている人が損」というwebでの論調がどちらに向けられているのかも、また峻別されるべきであろう。『払えない親』に対し公的扶助を行うことで真面目に払っている人が損をする、という意見は間違っている(なぜなら、教育により特筆すべき能力を開花させる可能性があり、またそんな仰々しくなくとも、しっかり就労してくれさえすれば公的扶助に要した費用など取り返せるのだから)し、そんな間違った意見が社会に蔓延っているなら、世の中が優しくないと嘆くのは正しい。しかし『払わない親』の行為を認めてしまったら、risk-benefit(代価を払うことにより、相当の功利を得る)の原則に風穴が空いてしまう。「代価を払わなくても利得を得られる」のなら相対的に「代価を払う側が損をする」し、代価を払わない輩が増えて社会システムが崩壊する危険が在る。故にどこかで区切りを付けなければならない。
「子供には一切責任がない」なら、それは扶養者の責任であり、扶養者の責任を問えない、あるいは扶養者の過失(あえてこの語を使わせてもらう)により教育を受ける権利が奪われていることを救済できないのなら、それは社会システム(法治)の不備であり、改善すべきはシステムそのものである。ならばここで“優しさ”・“人情”云々を語るのは不当であり、「社会に優しさが足りない」と嘆くのはお門違いであろう。(もう一度いうが、問題が生じているのはシステムの不備の為であり、優しさが足りないからではないからである)
もう一つ。社会システムではどうしてもカバーし切れない領域は必ず発生する。“優しさ”や“人情”はそういう局面でこそ使用されるべきリソースである。だいたい、“優しさ”のリソースで可能なコトは限られているし、リソースである以上、限りがある。その限られたリソースを使用すべきは社会システムの守備範囲外=余事象であって、社会システムそのものの不備につぎ込むべきではない。授業料不払い問題に話を戻すなら、今回の一人二人のケースなら国家なりどこぞの篤志家の資産なりをつぎ込めば解決はする。しかし今回の事で不払いケースが多発しだしたら、結局救い切れなくなるぞ。
さらに一つ。“昔話はしない方がいい”。守株になる。“完成された社会主義”の時代はもう終わったこの国で「昔はよかった」などとボヤいても、何の足しにもならない。時代が変わるのなら、システムも変えるまでである。

善意とか人情とか

そもそも、「善意による行為」そのものが、自分の所有するリソースを消費する行為である上に、その善意が必ずしも効を奏するとは限らないばかりか、本人や周囲から悪意を向けられることだって少なくない。挙句、自分が善意を呈したからといって、自分もその善意の恩恵に与れる保障はどこにもない性質を有するものであり、そういうriskへの覚悟を伴わない行為は、大抵ロクな結果にならない。riskがある以上、他者にそれを強要するのは間違っているし、riskを避けて行動しないという選択を非難する訳にもいくまい。「“優しさ”のリソースで可能なコトは限られているし、リソースである以上、限りがある」と述べたのは、こういう理由による。この手の話は、当blogでも再三登場したような、気もするが。

安価な理想

私の“似非理想主義者”嫌いに関しては、下記エントリを参照。

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