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DVD 「空の境界 矛盾螺旋」 鑑賞記

…最高だ。ここ1か月の疲れが吹き飛ぶ程の心地よさを覚える程度の傑作だ。
さて、以下感想。ネタばれ含む。おk?
空の境界全編通じてのクライマックス(本来ラスボスであるはずの荒耶宗蓮とのバトルなので。もっとも、そういう本来そういうキャラとの対決場面を中編クライマックスにもってくるのが菌糸類文学の真骨頂であるし、“形式上の”ラスボスとの対決よりも、その後の“本来の”主人公である彼の一言と後日談がなければ、この物語は終結されないのでは、あるが)なので、最高と言わざるを得ないのは必然。まぁ、小説版のセリフや地の文を相当簡略化しているため、初見では相当難解で、小説版原作を読まないと理解できない部分があるのは、まぁ止むを得ないところでは、あるが。という訳で、小説版を是非ご一読頂いた上での鑑賞をお勧めする。小説版を読んで、DVD動画版の感動が、必ずしも損なわれるものではない、というのが持論ではある。
以下、各論。

臙条巴の結末

後述するが、荒耶宗蓮が結論付けた“人間という存在に対する解”への反例こそ、臙条巴という存在であり、後の作品である「Fate/stay night」の主人公: 衛宮士郎原型アーキタイプ——それは恐らく、TYPE-MOON、ひいては奈須きのこ氏が伝えたかったメッセージの半分の象徴——が、本作品のテーマの一つである。ネタばれしてしまえば、彼は臙条巴“本人”ではない。家庭崩壊の末に母親に殺されてしまった“本人”を模すために荒耶宗蓮が作り出した“人形”であり、あるエラーから両儀式を誘い出す目的で利用された疑似餌である(それ故、両儀式に興味・好意を持つように荒耶宗蓮に無意識を操作されている)。しかし、家庭崩壊に至る前の、家族の尊さ(それを象徴するレガリアが「鍵」——比喩的な表現ではなく、本当に玄関の錠前の鍵なのが奈須きのこらしい——)と、自らが“偽物”だと荒耶宗蓮本人から伝えられてもなお、自分の感情が“偽物”などではなく“本物”だと言い切る、件の一言に、この作品の約半分は集約されるのである。そしてそれこそ、「概念の怪物」である荒耶宗蓮を克した“解”である。さて、原作やDVDの品質を侵犯するのは本望ではないので、彼の“その”台詞は、ぜひ小説版かDVDでご堪能頂きたい。
それともう一つ。原作よりDVDを見て良かったと思える点は、当然原作と異なる何かである。荒耶宗蓮に握りつぶされる臙条巴は、小説版では無言である。しかしDVD版では消滅する今際の際に一言ある。賛否両論あろうが、私見を述べさせてもらう。無言だと、式や橙子が後にフォローを入れてはいるものの。ものすごく“不安になる”のだが、DVD版ではその不安は払拭されるのである。
…君は、“無価値”などでは、なかったんだ。君は、起源を克服したんだ*1

“荒耶識”

臙条巴=衛宮士郎という存在が、奈須文学のテーマの半分なら、荒耶宗蓮はもう一つの“人間という存在に対する解”そのものである。そしてこちらは、「Fate/stay night」の言峰綺礼原型アーキタイプである。しかも、私見であるが言峰綺礼の方が“ある意味”バージョンアップしている。というのも、荒耶宗蓮蒼崎橙子の言うところの「概念の怪物」——それは即ち、解として完成してしまっており、それ以上動かしようのない存在かつ“怪物”過ぎて小説上の産物であるかのような疎遠感を覚える存在であるのに対し、言峰綺礼はまだその“過程存在”であるため、いくらか親近感・現実味のある——というのは違和感アリアリであるのは重々承知ではあるのだが——存在であり、また立場に可動性があるため、必ずしも単純な悪役・敵役ではない面白いキャラに仕上がっている(このあたりは、このエントリでは「Fate/stay night」にはあまり触れないし、また「臥猫堂」の「Fate/stay night批評」に詳しいのでご参照頂きたい)。勿論、解としての完成型であり、その文学的価値に如何なる減損が存在する訳ではないのだが。事実、当Blogの「言霊」カテゴリで最も引用数が多いのは彼のセリフである。

とおい昔の噺だ。人間は救いきれぬ。生きていく以上、どうあっても報われぬ者が出てしまう。すべての人間は幸せになどなれぬ。ならば———救われなかった人間とは何だ。その一生は何をもって報われるのか。
答えはない。無限と有限に等しいのだ。救われぬ者がいなければ、救われる者が吐き出されない。ならば——救済など、ただ巡るだけの金貨と同じだ。
人間は救われない。世界に救いなどない。だから死を記録しようと思った。物事の最後までを記録して、世界の終わりまでを記録して、一から最後までを検分する。その上でなら、一体何が幸せだったのか判別がつくだろう。
報われない者も救われない者も、その全てを一から見直すことができるなら———何が幸福と呼ばれるものかを判断できる。世界が終わった後、この出来事こそが人間の意味だったと解るのならば——無意味に死んでいった者達にも、総じて意味が与えられるのだ。故に世界が果てれば、人は、人間の価値というものを検分できる。
それだけが———唯一、共通の救いである。

奈須きのこ空の境界<下>」

だがな荒耶。おまえは人間を憎んでいるんじゃない。おまえは、おまえの中の人間の理想像を愛しているだけなんだ。だからあまりに醜い苦界の人間が許せない。人を救う? は、笑わせるな。おまえは人を救いたいんじゃない。おまえは、荒耶宗蓮というものが幻想している人という形を救いたいだけなんだよ

奈須きのこ空の境界

「度し難く救い難いのは人間の性」など、日々送られてくる国内・世界の殺伐としたニュースのみならず、“何をやっても救いきれない”のは、オレ達医療従事者が何より知っている。荒耶宗蓮の解は世界の真理であり、何人も否定できない事実である。しかし、だからこそ、その“世界の真理”に抗う存在——臙条巴=衛宮士郎という存在——が光り輝く。取りも直さずヒロインの姓が“両儀”であり、その存在は“太極”*2である。“陽”である彼らの存在に対し、荒耶宗蓮=言峰綺礼という存在は“陰”そのものであり、また奈須文学の中核を成しているのである。
人間の性を「パンドラの箱」に比定するなら、箱を開けた時に飛び出した数多の厄災が“荒耶宗蓮=言峰綺礼”という存在なら、残った希望こそ“臙条巴=衛宮士郎”という存在であり、人間が“人”たる存在理由raison d'êtreであると思うのだ。
さて、ここから暫くはオレの私見かつ暴走であるが。橙子が荒耶を怪物と称したように、何であれ世界のことわりに“屈した”(この表現にもかなり語弊を感じてはいるのだが)人間が“成る”果てが“怪物”なのである。実は、このあたりの描写があるのが、夢枕獏の「陰陽師」と平野耕太の「HELLSING」ではないかと思うのだ。

「徳子殿。あるのだよ。泣こうが、苦しもうが、どんなに切なかろうが、どんなに焦がれようが、どれほど想いをかけようが、戻らぬ人の心はあるのだよ……」
「わかっております。みんなわかっております。けれど、ああ、わかっていても人は鬼になるのでございます。憎しみや哀しみを癒すどのような法もこの世にない時、もはや、人は鬼になるしか術がないのです。なりとうて鬼になるのではないのです。それしか術のない時、人は鬼になるのでございます」

夢枕獏陰陽師 生成り姫」

陰陽師生成り姫 (文春文庫)

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俺のような化け物は
人間でいることにいられなかった弱い化け物は
人間に倒されなければならないんだ!!

平野耕太HELLSING 8」

HELLSING 8 (ヤングキングコミックス)

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ついでにもう一つ。本章のタイトルにした“荒耶識”は、自己欲の究極値である「末那マナ識」に対する対義語が「阿頼耶識*3、であり、「アラヤ」の姓を冠した荒耶宗蓮蒼崎橙子がその矛盾を突くのが、本編の見せ場の一つであるが、「未来福音」の読者ならお分かりの通り、両儀式黒桐幹也の娘の名が「両儀未那マナ」であることに、ニヤリとするのである。

Sprinter

本DVDのED songである「Sprinter」は、これまでの作品の戦闘シーンで使われたBGMに歌詞を付けたものであった。しかし、なぜ「(訳)短距離走者」と思ったが、今回のDVDでその疑問が氷解した。
…わからない方は、小説を読みましょう。DVD版中でも僅かにヒントは残されてますが…(ヒント: 臙条巴が属していた部活は何でしょう?)

sprinter(初回生産限定盤)(DVD付)

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追記

どうも作曲者本人も「この曲は巴の曲だ」という意気込みで作ってたようだ。「FictionJunction.blog」参照。「Seasons Of ChangeKU。

「いいえ」

DVD版最大の失策は、両儀式のこのセリフを省略したこと。微笑みだけでは、この物語の最終結末である最終章「空の境界」の意味が分かりにくい。この最終章こそ、「空の境界」を究極たらしめる、黒桐幹也を主人公たらしめる究極であり、この一言はその複線であったというのに。

アーネンエルベ

このシーンは秀逸かつ、よくぞ省略しなかったと賞賛すべき点である。「月姫」や「Fate/stay night」を知らないと非常に分かりにくいが、この喫茶店の描写がないと、TYPE-MOONの世界観が成立しないのである。

その他

幹也の部屋の鍵をねだる式にかなり萌えるだとか、“赤ザコ”の最期に対する橙子の視線の憎悪感が乏しいとか、賛否両論な点は他にも色々あるが、それはまぁ、瑣末な事象なので、語るに足らない。
さぁ、鮮花に萌える以上に、最終結末をどう画像化してくれるか、楽しみのしようではないか、同胞諸氏。

*1:だって“本人”じゃなくて“偽物”だったんでしょ、という突っ込みは却下。それは十分理解しているし、菌糸類の掌の上で踊らされているだけかもしれないのは承知の上。でも、それを指摘するのは無粋というものだよ。

*2:意図してのことであろうが、作中でも青崎橙子による「太極図」の解説がある。

*3:サンスクリット語の「alaya」とは「蔵(蓄える)」が原義であり、「雪を蓄える」の意味である“ヒマラヤ”の“him-alaya”の部分を成す。

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