- 「こんにゃくゼリーで窒息死した1歳男児の遺族、『マンナンライフ』に6200万円の賠償請求」: 「痛いニュース(ノ∀`)」
- 「マンナンライフ事件は事故なんかじゃない」: 「虚構組曲」
- 「知らないことってのはあるものだ」: 「novtan別館」
- 「マンナンライフ事件は、やっぱり『事故』だと思う。」: 「琥珀色の戯言」
はてなブックマークですっかりホッテントリ化した上記案件だが、恐らくこれまでの各blogでまだ述べられていなかったであろう側面からのエントリを2題、提示しようと思う。エントリそのものは2つに分割するため、もし時間があればそれぞれをご覧頂きたい。続いて、後編(前編はコチラ)。
たぶん、事故
身も蓋もないことを言うとfujipon先生の意見に同意なのである。というか、以下の2点に集約される。
…実に当たり前のことなんだけど、となると、今回の一件はある確率で起こるべくして起きた事故としか言いようがないのである。確かに、冷凍したこんにゃくゼリーを、まだ嚥下機能が未熟な小児に食べさせたのは、誤嚥・窒息の危険は高いかもしれないにせよ、では他の食物でも同じような事態にならなかった保障は、どこにもないのである。その辺りは、「こんにゃく入りゼリー誤飲事故のデータなど」: 「服従するが果たさない」などをご参照頂きたい。
責を問い始めると泥沼化する
問題なのは、法廷に賠償請求をしてしまった=事故ではなく、誰かに過失責任がある、としてしまったことだろう。事故ならば誰の責も問えないのだが、「責がある」と法廷に提訴してしまった以上、「いったい誰の責任なのか」の論争が始まるのは必然の帰結だろう。ホッテントリ化してしまったのは、原因はここにある。
個人的意見としては、事故なのだろうと思っているのは、前述の通りである。ただ、一旦法廷にその論争の場を移してしまった以上、法廷の結審を待つしかないとも思っている。当事者ではない者が互いにDisりあいをしても、何かの利得になるとは、到底思われないのである。
誰かの責を問うことは、自分の責ではない事を欲することの対偶
ただ、どうしても意識の辺縁にへばり付いて離れないのは、「なぜ製造業者相手に提訴したのか」という疑問である。実のところ、「痛いニュース(ノ∀`)」のエントリに掲載されてる2chの書き込みも、心情的には分からなくもない。ただ、何もこの一件の話には限らない。人間の性としての根本的な“何か”が、見え隠れしてるようでならないのだ。
「誰かのせいにしなければ、自分のせいであることを否定できない」
…何の事はない。ある物語*1を引き合いに、このblogで再三述べた話である。
どうも人間というのは、“誰のせいでもない”という立ち位置は、非常に居心地が悪いようなのである。なまじ“良心”なるものがあるからだろうか、「ひょっとしたら自分のせいかもしれない」という“良心の呵責”が、まるで“悪夢”のように心の滓として存在するような気がする。その悪夢を手っ取り早く振り払う方法が、「誰かのせいである」と声高に叫ぶことである。何故なら、他者の責任であるのなら、少なくとも自分の責任ではないのだから。——あくまで仮説でしかないのだけれど、この件に関わらず、どうもこのご時世、これに発端を有する事象が多い気がするのは、気のせいだろうか?
また、ネット上のDisりあいも、以下を想起せざるを得ないのである。
皆口々に言った…
テレビが悪い、ゲームが悪い、漫画が悪い
親が悪い、学校が悪い、社会が悪い
だが誰一人として
この世界を築いた自分達が悪いとは言わなかった
◆JbSHgdOVNE 「2ちゃんねるモナー板 山奥のしぃ先生」 198話「帰郷」より
イエスはオリブの山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らに教えておられた。 すると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫している時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らはそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
下の新約聖書の一説は通称「罪のない者が石を投げよ」。21世紀のご時世になってもイエスの教えは真髄を突くものでは、ないだろうか。
締まりの悪い結末
こればっかりは、法廷の結末を待つほか無いので。ただ、気になった事だけは、記しておいた。皆様は、どうお考えだろうか?
*1:「Fate/stay night」や「Fate/hollow ataraxia」のこと。