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- 作者: 海堂尊
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2007/04/07
- メディア: 単行本
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所詮は商業映画
“商業”映画である以上、売れなければならない。大衆が求めるのは手っ取り早い娯楽であり、難解な社会現状の把握ではない。ストーリーが陳腐な“勧善懲悪モノ”に改悪されてしまうのは、商業映画の限界だろう。アレに期待するだけ無駄と考えた方がよさそうである。
“勧善懲悪モノ”がもてはやされるのは、今更のことではないのだが。
悪役を求めるは人間の業
もうこのblogでは度々登場した話であるが。“誰も悪くない”などという結論にはほぼ間違いなく至らないのが人間の業である。仮令事実としてそうであったとしても、それを認めてしまうには、獏とした不安が残るからである。
- 誰かが悪くなければ、自分の悪性を否定できない
- 誰かが悪くなければ、確率論的に発生する不幸な結末を了承できない
皆口々に言った…
テレビが悪い、ゲームが悪い、漫画が悪い
親が悪い、学校が悪い、社会が悪い
だが誰一人として
この世界を築いた自分達が悪いとは言わなかった
◆JbSHgdOVNE 「2ちゃんねるモナー板 山奥のしぃ先生」 198話「帰郷」より
ただ、“誰も悪くない”という現実と、“誰かが悪くなければ安心できない”という勧善懲悪を要求する心理の間に齟齬が発生した場合、その齟齬を埋める一番手っ取り早い方法は、“悪役を仕立て上げる”ことである。上記の作品の商業映画でのストーリー改悪はこの結果に過ぎないと見る。
が、上記はフィクション作品のストーリー改変で話が収まる分マシである。これが現実になると、途端に地獄絵図になるのがシャレにならない。魔女狩りまがいの“悪役仕立て上げ”など、日常茶飯で行われていることであることを見るべきである。このことは2009年3月10日のエントリ「Double Side 〜こんにゃくゼリー問題について2側面からのエントリ〜 事故と非事故の境界」でも述べたことである。
だが、わたしはつづいて中国人が銃殺されるのを参観する運命にでくわしたのである。第二学年には細菌学の授業が加わった。細菌の形態はすべて幻灯で示されたが、それが一段落してもまだ放課の時間にならないときには、時事的なフィルムが映された。当然それらはみな日本がロシアに戦勝している場面だった。ところがたまたまそのなかに中国人が混じっていたのである。ロシア人のためにスパイをして日本軍に捕えられ、銃殺されようとしているのだが、それをとりかこんで見ているのも中国人の群集だった。教室の中にはもう一人、わたしもいるのである。「万歳!」彼らはいっせいに手をたたいて歓声をあげた。 —この歓声は、一枚を見るごとにいつもあがったが、わたしにとっては、その声はとくに耳を刺すようにきこえた。その後、中国に帰ってきてからも、わたしは銃殺される罪人をのどかに見物している人たちを見たが、彼らもまたどうしてか酒に酔ったように喝采するのである。——ああ、もはや何をか思うべき。だが、そのときその場で、わたしの考えは変ってしまったのだった。
魯迅 「藤野先生」
魯迅は“悪役”に石を投げつける行為に愉悦を覚える人間の性を目の当たりにして辟易して、
この世全ての悪などと笑わせる。
その異名は人間の総称だ。
おまえたちが造り上げた鏡を見ろ。
我が罪はすべて人が造り上げたもの。
喜ぶがいい人の子よ。君は、あらゆる悪を再現可能だ。
恐れたのは悪心ではなく、悪心を祭り上げた自身の脆さを恐れ続けた。
石投げる行為に愉悦を。
感覚を鈍麻させ、道徳を麻痺させて、醜いモノに変わっていく。
この過酷な世界において。
我々は、憎しみなくして生きてはいけない。
未来永劫、癒される事はない。
中身を覗けばおぞましい肉食の群。
ガチガチと牙をならし、入ってきたものを食い散らかす。
まるで怪物の水槽だ。何人であろうと、自身の深層を見れば生き汚さに嘔吐する。
奈須きのこは、悪役の究極“この世すべての悪”なる存在から人間の性を俯瞰する世界観を描き出し、
イエスはオリブの山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らに教えておられた。 すると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫している時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らはそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
イエスは、悪役に石を投げる行為を諌めたのである。
勧善懲悪の呪い
勧善懲悪のストーリーを大衆が求め、商業として供給されるのは必然の結末であるが、これでは永久に救急医療の行き詰まりは解消されないだろう。“勧善懲悪の呪い”が解呪されない限り、“誰も悪くない”という現実に向き合うのは不可能なのだから。
原作と映画の乖離に対する考察になってしまったが、さて、いかがだったろうか。まぁ、もともとの持論の蒸し返しにしかなっていないがなぁ。
*1:サイトの構造上エントリに直リンクするのは不適なため、「Docter's Link」からご参照ください。