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Senatus consultum ultimum

いささかヘヴィーな話。読みますか?
俺が皮肉で「元老院最終勧告Senatus consultum ultimum」と呼んでいる事象がある。悪性疾患の末期状態において、それ以上の積極的な加療を断念することを、本人または家族に告げることである。
血液悪性疾患の場合は、他の固形癌よりなまじ抗腫瘍薬に対する治療反応性が良いだけに、疾患の寛解を目指して積極的加療に突っ走りたくなるのだが、それでもやはり悪性疾患である。そして現代医療にも限界は存在する。どうあっても回復が見込まれない事態は生じるのだ。“医療の事象の地平面”が見えるのは、何も元々体力の低下している高齢者での治療に限らない。若年者でも、治療抵抗性であったり、何度となく再発する性質の悪い疾患であったり、どうしようもなく重篤感染症や合併症に罹患することだってある。そのようなとき、あらん限りの点滴ボトルがならび、点滴ラインだけでなくドレーンチューブやらなんやかやが体から伸び、ともすれば喉には気管チューブが挿入され、人工呼吸器に繋がれた状態になってでも、それこそ奇跡でも起きない限り回復しないような状況であるのが分かっているのに、なおそこまで患者の肉体に、家族の精神に犠牲を強いてまで治療を強行する必要はあるのだろか? 勿論、本人や家族に、その犠牲を受け入れる覚悟があり、その奇跡に期待するというなら、手を拱く理由はない。だが、状況がどうあっても“詰んでいる”のが分かってしまうのも、我々の業なのだ。その“詰んでいる状況”を知っていながら、なお積極的治療を強行するのは、確信犯的な医療者の独善なのではないだろうか? 血と浸出液に濡れて苦痛に咽びながら最期を迎えなくても、その苦痛を和らげるあらゆる支持療法を尽くし、穏やかに最期を迎えるようにするのも、それは立派な加療/医療なのではないのか?
だが、“医療の事象の地平面”が見えるのは医療者、特に医者なのだ。選択を本人や家族に丸投げしても、戸惑うばかりになるのは自明の理だろう。ならば、穏やかに最期を迎えるように計らう、“最期の幕引き”を担うのも、我々医師の仕事なのではないだろうか。前述の通り、苦痛の除去に努めるのも治療の一つであり、積極的加療を断念するのは、決して「見捨てる」訳ではないのだが、例え奇跡とも思える微小な可能性であったとしても、治癒・回復を望む本人や家族にとっては、その僅かな可能性でも「放棄する」ことに他ならない—選択するということは、他の選択による可能性を握りつぶすことに他ならない—のだから、その決断は苦渋に満ちたものとなる。その選択を後悔なく決断できるほど、誰しも強い訳ではないだろう。ならば、その決断に“指向性”を提示するのも、医師の仕事なのではないのか。
当然、その決断を促すのも、我々にとっては苦痛以外の何物でもない。“曰く他人事”を決め込むのでなければ、最善を尽くしたと思って実施したこれまでの治療でも、残念ながら期待した結果を得られなかった後に来る決断なのだから、これほど苦痛な話もない。だが、誰かがやらなければ残るのは患者本人の苦痛しかないのなら、それをしなければならないのは、やっぱり我々なのだろう。
我々医師の仕事は、患者の苦痛を取り除くこと。しかし、その内実は、治癒を目指すこと、人生の幕引きを担うこと、相対する矛盾を内包している。

皮肉の意味

元老院最終勧告Senatus consultum ultimum」と呼んだ理由。それは、その存在が矛盾したものだからである。
勧告機関であるはずの元老院が、反国家行為者に対し裁判抜きで極刑を執行できる元老院最終勧告。それは、我々とて人間に過ぎない、生殺与奪の権利を持つ訳ではない医師が、積極的加療の断念という、患者の未来に関する重要な事象に関して勧告するのに似ているからである。
なお、グラッススの農地法を握りつぶし、共和制末期には乱発され政治闘争のカードに過ぎなくなった本家本元の「元老院最終勧告Senatus consultum ultimum」は、その矛盾を突いたある英雄により、その機能を停止させられた。その英雄は、ユリウス・カエサル

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