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ACROSS THE BORDERLINE

読みます?



「まぁそんな気もするね」私の口癖である。病棟ではからかわれて真似されるのだが(藁)。使い処は唯一つ。自分と異なる意見を言われた時に、その意見に同意する時だ。
実は元ネタは川上稔の『終わりのクロニクル』シリーズで主人公・佐山御言がヒロイン(?)*1・新庄運切の意見を容れる時の台詞だったりする。しかし更には「其も是なり(それも亦真理であろうよ)」の意訳の意味でも使ってはいるのだが。
「色眼鏡」とは随分批判じみた表現ではあるが、人間誰しもが他者を観察する際には、少なからず“バイアス”が掛かる。それは自分の経験論だったり価値観だったりと様々だが、その“バイアス”が真実を見る目を曇らすことは、まま、ある。そんな時には自分の意見に拘泥してはいけない。別の視点からの意見が、寧ろ真理に近いことだってある。誰しも自分の意見を棄却することに躊躇いを呈する程度の“矜持”は持ち合わせていようが、その矜持が真理に近づくことを邪魔する事を知っている以上、その矜持ごと自分の意見を棄却することが必要な時はある。「まぁそんな気もするね」は、そのための一種の“呪文”のようなものでは、ある。
ましてや、他者の“生きざま”は、その人の人生観に準拠するものである以上、必然“自分”のものとは異なる。その“生きざま”を自分の価値観その他諸々の“バイアス”に準じて観察してしまえば、相手を理解するに遠のくであろう。
こっちわたしあっちあなたと違う」。『HELLSING 10』*2の引用だ。この台詞を吐いた「少佐」はこれを“闘争せんそうの根源”と言ったが、この事実を認識してこそ、理解できる真理もある。「相手を理解する」とは「私と貴方の境界BORDERLINEを理解する」事に他ならない。そしてその境界を超えて俯瞰するACROSS THE BORDERLINEことが、真理把持Satyagrahaに不可欠な事だ。前述の“呪文”も、その為の方便である。
私のインフォームド・コンセントも、この信念に準拠する。再発し、あるいは合併症につき勝ち目の少ない化学療法をするや否やの選択を迫られた時、私は患者にその現状を説明した上で、最終決定権はあくまでも患者本人に委ねる(勿論、患者家族同伴での説明だが)。徹底抗戦するか、症状の緩和を望むかの選択は、結局「貴方自身の生き様によって決めるべき事柄」であって、医者が他人様の生きざままで決定するのはおこがましい、と。但し、「あんたが勝手に決めなさい」と匙を投げるのでなく、「私ならこう思うけど」という選択肢を提示して、しかしそれはあくまでも「私の考え」であって、「私は貴方の意見を教えてほしい」と、相手の価値観の教えを請うことにしている。勿論、決断の前に「私の意見」を提示するのは、相手の判断にバイアスをかけることは百も承知。ただ、似たような症例を数多に経験している以上、その経験に基づいた提示をしようとは心がけている。それはその経験を生かす“主治医の責務”であろう。
私は何時だって、自分の価値観の境界の“向こう側”にいる貴方の意見が聞きたい。その為の方便として、あの“おまじない”は使い続けることになるだろう。自らの価値観の塀の中に閉じこもる輩になんか、負けてやるものか。

*1:?を付けた理由は、原作読めば分かります。

*2:

HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)

HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)

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