ちょっと呟いてみる

日々の戯言、写真、旅行記、好きな音楽、格言、Minecraftプレイ記録

歴史の反復に失笑する程度の能力

ホッテントリなネタである不活化ポリオワクチンには、正直あまり首を突っ込みたくないが…あまりに歴史を繰り返し過ぎてるのでは、看過し難いので。
では、どうぞ。

まずは引用

h_j1 @

へなちょこ @

“悪役を任ずる”ことの難易度

そして自分のエントリから。

もう出典すらあやふやだが、多分水木しげる氏の何か(実写とアニメーションの混合したTV番組だったのは覚えてる)、とまぁ随分な話なのだが。人間の少年に妖怪の爺様が、"ある語"を書いた紙を見せて語るのだ。 「妖怪の世界には可能と不可能しかない。しかし人間には"可能性"というものがある」 そうなのだ。人間の未来は何だって“可能性でしか語れないのだ”。それが良かれ悪かれ。放射線障害も(急性障害は兎も角として)統計学的にしか語れない。悪性腫瘍の5年生存率も「その人が5年後に生きていられる確率」=未来測定ではなく、「同じ疾患の患者が発症5年後に何%生きていたか」という過去の事実でしかない。可能性でしか語れない未来を「否左稲佐=いなさ」="Yes or No"で語ろうとするから、事実を見誤るのだ。

2011年3月25日「可能性の海」

上記エントリでも述べたが、未来は不確定である以上、一切の事象(それが医療であれワクチンであれその他であれ)には不可避な危険性が存在する。それでもなおその危険性より利潤の方が上回る場合においてのみ、その事象を用い、而して悲しくも不測の事態に至った場合にはその損耗が最小限になるよう最大限の努力を行う、これが“救済”である。当然、予期可能な危険性を看過・軽視した場合には、その責任は問われるべきであるが、その境界線を明確にするのは非常に困難である。
…そのレベルで議論が進むなら問題はないのだ。しかし本件はそうではない。厚労省が承認も救済制度の制定もグズるのも、司法が“救済(補償)する際に、誰かの過失を必要とする”のも、結局は当blogで再三どころではない程主張してきた、根幹の概念があるからである。それは何か? かつてホッテントリ化した「こんにゃくゼリー問題」に関するエントリを、部分をそのまま引用して答えとする。

ただ、何もこの一件の話には限らない。人間の性としての根本的な“何か”が、見え隠れしてるようでならないのだ。
「誰かのせいにしなければ、自分のせいであることを否定できない」
…何の事はない。ある物語*1を引き合いに、このblogで再三述べた話である。 どうも人間というのは、“誰のせいでもない”という立ち位置は、非常に居心地が悪いようなのである。なまじ“良心”なるものがあるからだろうか、「ひょっとしたら自分のせいかもしれない」という“良心の呵責”が、まるで“悪夢”のように心の滓として存在するような気がする。その悪夢を手っ取り早く振り払う方法が、「誰かのせいである」と声高に叫ぶことである。何故なら、他者の責任であるのなら、少なくとも自分の責任ではないのだから。——あくまで仮説でしかないのだけれど、この件に関わらず、どうもこのご時世、これに発端を有する事象が多い気がするのは、気のせいだろうか?
また、ネット上のDisりあいも、以下を想起せざるを得ないのである。

皆口々に言った…
テレビが悪い、ゲームが悪い、漫画が悪い

親が悪い、学校が悪い、社会が悪い

だが誰一人として
この世界を築いた自分達が悪いとは言わなかった

◆JbSHgdOVNE 「2ちゃんねるモナー板 山奥のしぃ先生」 198話「帰郷」より

エスはオリブの山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らに教えておられた。 すると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫している時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らはそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

新約聖書ヨハネによる福音書 第8章

下の新約聖書の一説は通称「罪のない者が石を投げよ」。21世紀のご時世になってもイエスの教えは真髄を突くものでは、ないだろうか。

2009年3月10日「Double Side 〜こんにゃくゼリー問題について2側面からのエントリ〜 事故と非事故の境界」

…そう。「誰かのせいにしなければ、自分のせいであることを否定できない」から、それがどんなに予測不能、一定の確率で発生しうる事象であっても“救済(補償)する際に、誰かの過失を必要と”する以外に方法は無く、而して普段は保険適用からその価格までを上意下達で支持する“大旦那”である国家・政府(=厚労省)には、その“悪役を担う”だけの器量はないので、“誰かを悪役に仕立て上げることすらできずに”無為無策で事なかれ主義を通すのである。
故に、神奈川県知事の行動は“蛮勇”ではあるが、果たしてどこまで支持を得られるものか、悲観的な推測を立てざるを得ないのである。
もう一度言う。
「誰かのせいにしなければ、自分のせいであることを否定できない」

この妄執に囚われている限り、歴史は何度だって繰り返す。

*1:Fate/stay night」や「Fate/hollow ataraxia」のこと。

当blogの記事全文の転載は固くお断り致します。原著作者(Terra Khan)の氏名を表示した引用、トラックバックは構いません。
「Terra Khan's Photo Gallery」の写真はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの指定に準じ、原著作者(Terra Khan)の氏名を表示し、非営利の場合に限り自由に使用できます。ただし、改変したもの(二次著作物)を公開する時、同じライセンスにする必要があります。各写真の署名の記載の通りです。