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-家族性物欲欠損症候群- 母からの手紙

昨日の親父のオヤジギャグを公開処刑にするのだけでは“不公平”なので、母からの手紙も、一節だけちょっと公開。実は、我が血族に密接に関わるネタになったりする。
こっから先はちょっとどうでもいい話。読みます?



それは、文箋の中のたった一行、「ホワイトチョコはまだあるよね?」
…これだけではさっぱり分からない。実は正月に実家に帰った時、帰りがけに六花亭のホワイトチョコを“大人買い”していったのである(1箱5枚入り×3)。だって東京では入手しにくいしー。
文面の意味は「ドカ食いしてないだろうな」ということ。ただ、真正直に答えるなら「もう1箱もありません」。但し追記。「最後の1箱は、“そのモノの在るべき場所に行きました”から」。
私は何時もこう考える。或る“モノ”が「今は自分の所有」であったとしても、もしその“モノ”で他の誰かの「効用が増大する」—「効用」というのは経済用語で、要するに、その“モノ”でその人が喜んでくれる—なら、「その“モノ”は“その人の所へ行くべきだ”」
父も母も言う。「自分の家族はどうにも物欲があまりないみたいだ」。医者である俺は皮肉ってそれを「家族性物欲欠損症候群」と呼ぶ。症例を出すなら、両系の祖父母も母も、やれ誕生日だ母の日だ敬老の日だと機会があって「プレゼントは何が良い?」と問うと「何でもいい」と答える*1。この手の返答は贈る側にとっては、難題極まりないのだが(苦笑)。要は「何かが欲しい」のではなく、「息子・孫がプレゼントをくれるという“事実”が欲しい」のである*2
そんな両家のハイブリッドだ。誰かが喜ぶなら、所有物を手放す事に一切の抵抗感がない。これもまたやや付会だが、仮令どれ程損耗しようとも、病の苦しみから救いたいと願って医者になったのだし、その“限界”*3を超えたくて、研究職という収入ゼロの現在の地位にあるのである。まったく、血は争えぬものだ。“モノ”ではなく無形の“事象”を渇望する我が性格は、旧友なら納得し得るところもあるのではないか。
ちなみにこういうのをイスラームでは“ザガタ”と呼び、仏教では“喜捨”と呼ぶ(なお倫理の教科書ではイスラームの「ザガタ」「ザガート」の訳語が「喜捨」となっている)が、私のこれは、何と呼んでも結構だが、単に血族のphenotype表現型だとしか思っていない。
母の手紙のあの1行、実は、私が講釈すれば“重い”のである。

*1:親父は例外。数年前から園芸が趣味になり、自宅の庭のガーデニング用品を欲しがるから。ただ、やや付会ながら、結局欲しがってるのは"ソノモノ"ではなく、それを用いて作られる庭の"美"という無形物である

*2:父方の祖父の場合には、我が血族が開拓した農地を旭川空港の建設の為に提供するという決断に与しているらしいのだが、ソースが少ないのであくまで補足程度で

*3:当blogで呼ぶところの「医療の地平面」

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