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ぼくらはみんないきている

久しぶりの「思考」タグ。少し話そうか。(一部作品のネタバレあり注意)
確かに監督の言う事にも一理あるのだ。そもそも「ロボット(robot)」の語源はチェコ語で「賦役」(強制労働)を意味するrobotaであるとされている*1。要は人間の代わりに労働してくれるモノ、なのだから、人が乗って労働してたら意味ないだろ、といういい方はできるのである。
ただ、非力な人間がより労働効率を上げるために用いるとしての"道具"扱いならば、人間が搭乗すべきものともいえる。パトレーバーや、ガンダムを始めとしたモビルスーツ、『翠星のガルガンティア』のマシンキャリバーしかりである。(『翠星のガルガンティア』に至っては、人間が生身では非力であるがゆえに人型の兵器を作ったと作中でほのめかされている。しかもそれと敵対しているヒディアーズは自らを改造して非力であることを放棄した"元人間"であることが明かされる)。ただ、これらはあくまで道具-人間の行動を拡張する道具としての扱いであるが故に、果たして原義としてのロボットとして扱ってよいものやら、というところでもある。
…が、ここからがミソなのだが。たとえ自律思考型であるものを「ロボット」として称するとして、人間が搭乗する必要が無いとしても、結局は「人間の労働を代わりにやる=人間の行為の拡張の道具」である以上、それは人間の搭乗の必要不必要にかかわらず、結局のところ、原義の通り「労働」の道具でしかないではないか。
だが。多分、そこを超越した何かがある作品に、私は魅了されるのだ。…ぶっちゃけていうと『攻殻機動隊S.A.C』のタチコマと、前述の『翠星のガルガンティア』の主人公レドが搭乗するチェインバーである。この2種、ちゃんと人間が搭乗できる。そういう意味では「人が乗ったら意味ないだろ」なのだが。しかし、自律思考型ロボットでもある(というかタチコマはむしろ勝手に動いていることが多いし、チェインバーに至っては「中に人などいない」と言っている)。では何が魅力的なのか。共通して言えるのは、実はロボット工学三原則の第二条・第三条を破っているのである。それだけ聞いたら、そんなの欠陥品じゃねぇか、となるのだが、彼らが第二条(主人の命令に反しない)・第三条(自分を保持する)を守らなかったのは、「主人(操縦者)の命令に従っていては主人を守れない。ならばどうするか」を自ら考えた結果だからである。もし第二条・第三条違反が、その自己の利益のみを考えたものであってそうしたのなら、それはロボットですらなく、ただ単に新しい生物(利己的な遺伝子)を錬成したに過ぎない。…というかマトリックスの世界そのものである(正確には「アニマトリックス」だが)。
タチコマは、自分たち機械に愛を注いでくれたバトーや少佐を助けるために自分たちを弾幕防壁にした。チェインバーはレドの未来とその可能性を期待して戦線から離脱させた。ロボットがただの道具か、新たな利己的遺伝子か、それともゴーストを保持するものか。人間が搭乗するか否かなんて、些末な問題なんじゃないかな。
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*1:1920年チェコスロバキア(当時)の小説家カレル・チャペックが発表した戯曲『R.U.R.』で登場している

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