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御朱印

いつか書いておきたいと思ったことだが、"生きているうちに書いておくことにするよ"。
昨今、御朱印収集が流行り、らしい。まぁ俺も"元カノ"の趣味を受け継いでいるので、他人様の事をとかく言えたガラじゃないのは自覚済み。
しかし、元々名刹・古刹を訪ねるのは性分なので、"御朱印"というものそのものを知らなかっただけ、とも言えるのである。おかげさまで方々の寺社仏閣で御朱印を頂くのが、"元カノ"と別れてからも、しっかり俺のライフワークになってしまった。
…そんな個人的な話はさておいて。なるほど御朱印収集が流行り、らしい、のだが、そして若い連中に俺の御朱印帳を見せても"スタンプラリーかなにか"としか認識してないのが、何となしに分かる。そうじゃないんだけどなぁ。
それを示す端的な話が、昨年戸隠五社を訪ねた時にあった。五社の中社からスタートし、上から順番に参拝し、下って火之御子社を参拝した後、社務所のある一番下の宝光社を参拝して御朱印を希望したのだが、火之御子社の御朱印を頂くにあたって、「参拝は済まされましたか?」と訊かれたので、「参拝が済んでないのに御朱印を頂く訳にはいきません」と返した。社務所宮司がニヤッ…俺もニヤッ…。
御朱印は、単なるスタンプラリーではない。御朱印そのものが欲しい訳じゃないのだ。「どうか御力を私にも分け与えて下さいませ。その願いの証に、残念ながら私は長々と祈祷・修練する暇がありませんので、せめてもの贖いとして金子を置いていきますので、どうか御権力を私に下さいませ」。…そう。御朱印は"買うのではない"。本来なら御権力を分けて頂くためのあれやこれやを省略して(だから一部の寺社仏閣は、その省略を許さない…写経や礼拝を済まさないと"証明書"としての御朱印をもらえない)、些細ながらも金子をお納めしますので御権力を頂きたい、という「参拝証明書」と「修行鍛錬諸々省略証明書」の両方を兼ねているのが「御朱印」なのである。だから京都西本願寺には"御朱印がない"。後者がないからである。"修行鍛錬諸々の有無に関わらず阿弥陀様は衆生(みんな)をお救い下さる"というのが教えだから、御朱印というものが成立しないのである。しかし皮肉なことに、参拝記念スタンプというのはある。要は、来るか来ないかは貴方の勝手、来たら記念にスタンプを押していけばいい。押す押さないに関わらず、阿弥陀様は皆をお救い下さる。御朱印スタンプラリー化に対する、毅然たる反抗を、俺は京都で見た気がする。
期間限定の御朱印の売買の話を聞いても、「ああ、そう」が俺の感想である。西本願寺の云々はともかくとして、俺は去年大雨の中、約3kmの雨中行軍を経て、雨に濡れぬよう御朱印帳をビニル袋でぐるぐる巻きに包んでザックに入れて、穂高神社奥宮に達して御朱印を頂いた。今年五月は晴天の中悠々と進み御朱印を頂いた。スタンプラリーなら、同じ場所に行ってもあんまり意義はないんだろうが、御朱印には意味がある。「穂高に住まう御神よ。去年はヒィヒィ言いながらここまで来た。今年はゆるゆるとここまで来た。しかしいずれも御神を敬うに差異はない。どうか、どうか、御力を私にお分けくださいませ」。俺の御朱印帳には明治神宮熱田神宮穂高神社奥宮のダブりが多い。多くたって全く構わないのだ。どうか、どうか、御権力を分けて下さいませ。そういう祈りである。他人の証明書、にすらならないものをありがたがるなら、好きにするがいい。生憎様、そんな物欲主義、拝金主義の連中も、お救い下さるかどうかは、神や御仏の領分である。それを知っている我々は、ただただ、冷たい眼差しを注げばよい。

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