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感謝をこめて、命を食らう

「いただきます」「ごちそうさま」の議論はいつまでたっても絶えないね。

事の発端

この議論は、少々飽いたが、ある意味仕方がないのかもしれない。「いただきます」「ごちそうさま」の意味を、教育されていないからだ。ただ「慣習としてそういうものだ」と教えられては、「本質的には社会への盲目的な服従じゃないかと思う」というのも、宜なるかな、とは思うよ。何故こんな挨拶をせねばならぬのか、何を意味するのか、教えられていないなら。

感謝の対象

「いただきます」「ごちそうさま」は感謝の言葉であるが、感謝の対象は"誰"ではなく、"何"であるか、から始まる。自論は以下の三者である。

  • その食材の原料となる生命に対する感謝
  • その食材の生産・加工・流通・調理に関与した方々
  • 今日も飢えることなく食事にありつけたという「機会・命運」
命を頂きます

当たり前だが、人間は動物である。故にそれが動物であれ、植物であれ、菌類であれ、その他の生物であれ、「その命を奪って自らの糧にする」という、生物学的に当たり前のことをやっている。しかし人は(人間は、ではない)、命を奪うことに呵責を感じる。しかし奪わねば生きていけぬ。だから、自分が生きていくために奪う命を弔うために「あなたのいのちをいただきます」。
命を奪うことに不感になった連中が「いただきます」を言わなくなり、しかし「命を奪うなんて許しませーん!!(しかし植物は除く)」と対極をなすのが、…ヴィーガン、だっけ?

貴方が手に入れる食材は、数多の労働力の賜物

飽食の時代。食材は当たり前のように手に入るようになった。…俗にいう先進国では。スーパーでは常に食材が並び、コンビニに行けば弁当がすぐに手に入る。しかし、食材の生産、供給、流通にどれだけ人的、物的リソースを費やしているか考えたことはあるか? そのシステムが無かった大戦以前でどれだけ飢饉が生じたか理解しているか?
まずは「鉄腕DASH」の「0円食堂」「出張DASH村」を見るがいい。生産者・加工者がどれだけ苦労して、消費者のもとに「望ましい食材を供給しているか」その裏で、採算ベースに合わない可食部分がどれだけ廃棄されているか分かるから。前者は"乞食食堂"と揶揄されているが、生産者だって捨てたくて捨てている訳ではない。食えるからと言って売り場に出して、買うのか? 運ぶコストがどれだけか考えたか? 「何か形が悪い」って買わないのは誰か?
それを端的に示したのが宋文洲氏の"奇形イチゴ"である。

形の悪いイチゴは売れないので、可食だが店頭に出回る前に排除しているのである。自分でイチゴを育てた経験があるなら、こんな"奇形イチゴ"ならぬ"形の悪いイチゴ"などたくさん出てくるのである。
目の前で調理してくれる方への感謝、だけでなく、いつも新鮮な食材を、よりおいしい食材を、より形の整ったものを…今食するものは、数多の人々の努力と技術の結晶なのである。それをないがしろにする人間のやることなど、お察しである。

明日飯が食えると思うな

当たり前の日常が、明日も来ると思うな。
この国では特にそう。戦争、紛争などなくても、天災はいつでもやってくる。地震津波、台風。災害経験者には語るまでも無いだろう。インフラが壊滅すれば、今まで当たり前だった「いつでも食事にありつける」というのは、幻想と化すのである。
今、無事に食事にありつけることが、いかに幸福な事か。それに備えるために何をすべきか。食事の度に、戒めとするのである。当たり前と思っていたことが、明日当たり前であるとは、限らないのだ。

これでもただの"慣習"と言うかね?

飯が食えることが当たり前になってしまった今の日本で、「いただきます」「ごちそうさま」の理由を教えられないのは、ある意味仕方がないのかもしれない。しかしジブリ映画『千と千尋の神隠し』を見た人なら、わかっているだろう。「後で代金払えばいいさ」と言った千尋の父が豚と化したことを。数多の命に、人々に、運命に、感謝の念を忘れた人間から、豚になるのだ。

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