terra-khan.hatenablog.jp
この続き。
ヒラコー 平野耕太『ドリフターズ』に登場する織田信長がこんなことを言っている。
合戦そのものはそれまで積んだ事の帰結よ。合戦に至るまで何をするかが俺は戦だと思っとる。猿以外 本質は誰も理解せんかったがな。
そのコマはこちらを参照されよ。
shojiro-slot.com
Google先生でこの言葉をひっかければ、どれほどたくさんのweb pageや画像がひっかかることか。要はみんな「なるほど!」と感銘を受けたからである。
で、だ。
どれとは言わんが、某"〇ろう系"の某作品を読んでいたら、登場した織田信長が"ほぼ同じことを言っていた"。もちろん、上記作品の後の出版である。これは「オマージュ」に該当するか?
否、である。なぜなら「この台詞が表現する内容は、その物語の根幹に関わるから」。
先のエントリ「その絵は生きているか?」で取り上げたtweet
どこかの誰かが言ってた、元ネタがバレて困るのがパクリ、バレなきゃ始まらないのがパロディ、わかる人にだけわかればいいのがオマージュ、元ネタの製作者にわかって欲しいのがリスペクト、暗黙の了解がインスパイアみたいなのがわかりやすかった(・ω・) https://t.co/9DVzRF7jXC
— おもち (@dorufyinn) June 12, 2017
の「オマージュ」の定義で、一つ前提として抜けていたことがあったことに、気づいたのだ。
「わかる人にだけわかればいい」のいうのは、その物語の本幹であってはならない。寄り道の先に、読者が「ニャッ」とするのが「オマージュ」なのだ。
物語の根幹に関わってしまっては、それはもう「オマージュ」なんかじゃない。ただのパクリなのである。そうでなければ、こうとでもしなければならない。
合戦そのものはそれまで積んだ事の帰結よ。合戦に至るまで何をするかが俺は戦だと思っとる。猿以外 本質は誰も理解せんかった。
と、別の世界の儂が言っていたがな。
「このアイデアは自分のものではない」と宣言できて、初めてパロディだのインスパイアだの言えるのである。そうでなければ、「このアイデアは自分のものではない」ということを暗喩できるだけの表現力を持つ人間だけが、パクリではないということを許容されるのである。
コロンブスの卵は、まさに正鵠を射るものである。名作家は、それまで誰も思いついたことのないことをやるから、新規開拓ができる。しかし、ネタが分かっていれば「俺だって西へ航海すれば新大陸を発見できたのだ」という。先駆者のアイデアに引きずり込まれるようでは、パクリの誹りは免れないのだ。文句を言いたいなら、前述の通り"出典は他にある"と明言するか、先達さえ思いもよらなかった新たな世界を切り開く、その2通りしかないのだ。
だから皆憤怒する。パクリを他の言葉で胡麻化してんじゃねーぞ、と。読者は、存外辛辣だ。