先日TV地上波で「天気の子」を観た。純粋に面白かったとは思う。
で、やっぱりこの話になるのね。
天気の子を見た父親の感想
— TLからパクツイするbot (@TLbot18) 2021年1月3日
「え、早く生贄になれよ。そっちの方が最大多数の最大幸福じゃん」
fujipon.hatenadiary.jp
以下、ネタバレのため伏せる。もうバレてるけど。
陽菜がそのまま天気の巫女として人柱になってさえいれば異常気象が解決する。なるほど一人を犠牲にすることで大多数が救われるのなら、"費用対効果"としては十分だろう。その人柱の縁者でなければ。
- 自分の愛する恋人が、家族が、仲間が、その人身御供に選ばれたとしても、その"費用対効果"をあっさり受け入れられるのかということ。
- だからといって、その人身御供を拒否した場合、"救われるはずだった大多数からの怨嗟の声"に耐えられるのかということ。
「素直に『帆高と陽菜よかったね!』と感動していた人が多かった。」そりゃそうでしょうや。そういう感想を抱く人は、意識してるか否かに関わらず「それはフィクションである」という前提にいるからです。背景を現実の(東京の)風景に近似させてリアリティを極めても、フィクションという前提があるから上記のアンビバレンツなんぞ考えもしない。「好きな人を救うために世界をも犠牲にする主人公と、救われるヒロインが素敵!」という感想で十分なのである。…っていうか、製作者もそういう意図だろう。
一方、擦れた大人たちは、なまじ現実の(東京の)風景に近似させてリアリティがある結果、上記のアンビバレンツに気づくし、その前に「警察に抵抗するとかないっしょー。後でどんだけ人生のリスクを負うことになるんww」ていう嘲りを抱くから、まぁ、好きになれんのです。
多分、この作品に対する好き好みが真っ二つなのは、このせいじゃないのかなぁ、と思ってる次第。
で、だ。
上記の"費用対効果"…「誰かを犠牲にすることによって誰かが救われる」というのは是か非か、なんて命題は、もうずーっと昔からある。少数犠牲対大多数の救済なら「トロッコ問題」が代表的だが、緊急避難の話なら「カルアネデスの板」…これ、古代ギリシアの話だぞ。他に「臓器くじ」「カンビュセスの籤」など色々。「Fate/stay night: Heaven's Feel」でもやってるし。この話に至るたびに、「またバーボンハウスか」と辟易するのだ。
やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボンハウスへ。
このテキーラはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。でも、このスレタイを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、このスレを立てたんだ。