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死とは、Update権限の喪失

太古から、人間は「死とは何ぞや」と自問自答してきた訳で。
俺は「死とは、Update権限の喪失」で十分じゃないかと思っています。
人間は(というか多分ウイルスさえ含むすべての生物がそうでしょうが)、生きることによって"この世界の情報を新たに書き換えている"。
ゲノムの複製は言うに及ばず。
もっと単純に考えていい。
何かを作る、新しい知識を得る。
いやもっと単純に。
誰かと出会う、話す、思い出を残す、愛し合う、喧嘩する、憎む、泣く、笑う。生かす、殺す。tweetする。
生きているというだけで、"この世界の情報を新たに書き換えている"="世界をUpdateしている"。
ところが、死んでしまえばそれが一切できなくなる。
故人を前に「あなたの志は私たちの心の中で生き続けます」と弔辞を読んだとしても、その故人は新しく何かできる訳じゃありません。
亡くなった祖父との思い出は私の心にありますが、祖父と新たにどこかに出かけて思い出を作ることはできません。そして、私が死んだら、それも消滅します。
故人が「千の風になっ」たとしても、"そう思っているのは今生きている人"であって(これも"世界の書き換え")、別に故人が風吹かせている訳じゃありません。ただの気象現象です。
死とは、そういうもんじゃ、ないでしょうかね。

だから。
お化けやら、亡霊やらが仮令存在したとしても、
"特異な条件下でない限りは"、Update権限の喪失しているので、何も出来んのですよ。
権限を喪失した存在は、権限を保有している"生者"には、どーやったって敵わんのです。ましてや、生きる意欲に燃え盛る者に対しては。
「生きる意志」ってのが、亡者に対する一番の御守です。

…って、ことは、だ。
「生きる意志」が極めて減弱化していた俺に、あちらさんが度々御出でなすったのも、むべなるかな。
そりゃそうだよねぇ、「俺たちはまだまだ生きていたかったのに、まだ生きているのに『死にたい』とはどういうこっちゃー! その肉体寄越せゴルァ!」と言いたくも、なるわなぁ。

最近、訪問を受けなくなりましたが。ええ、私は、大丈夫ですよ、今のところは。

元ネタ

Yahoo! ニュースか何かで見たんですよ。「関ケ原の亡者、減る」だったかな。もうソースもどこにあるか分かんないけど。
亡者って、その存在を信じる生者が減ったら、消えちゃうんですよ。だってUpdateできないから。
あと、祖父が亡くなった時、祖父と共に機会があれば唱えていた朝夕のお勤め(経文)を俺が唱えてる限り、俺の中に祖父は生き続ける…が、待てよ? もう新しい思い出も作れないのに「生き続ける」って言っていいのか? と疑問符が付いた果てが、上記の話なんですよ。

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