昔の話、誰かが「文章を読んでいて"誰か"が"それを読んでいるのを聞いている"感覚はあるか?」とtweetした。
俺は「ある」と答えた。しかも「各役職に"声優"を"割り振っている"」。しかし、その割り振った声の主が誰かと問われれば、答えようがないのだと。
そして、さらに重大な問題が、俺の脳にはある。
過去のエントリにも書いた気がするが。祖母の弔辞は"空勧進"、つまり白紙の"勧進帳”ですらなく、何も持たずに弔辞を述べた。問題はその理由。
誰も理解してくれないが。文章を書き記し始めると、脳内の誰かがそれを読み上げ始める。文章は読み上げられ次第、記憶から消えていく。"読み上げる速度"が"書き記す速度"を追い越した瞬間、「一体自分は何を言おうとしていたのか?」という健忘に至るのだ。だから小学生の頃の読書感想文が心底嫌だった。読んで得た感動を書き記す前に、脳内の誰かが"読み上げて"感動の全てを消去してしまうから。「あれ、自分は何を書こうとしていたんだっけ?」というのを繰り返すのは、苦痛でしかなかった。郷里に帰り着いていきなり明日に弔辞を読めと言われて、あれやこれや調べたのと、過去のエピソードを組み合わせて、頭の中で"カチリ"と型が嵌る音を聞いたくらいの、弔辞の文章が出来上がったのだが、敢えて文章に起こさなかった。理由は前記の通り、"起文すると忘却する"という、自分のイカレた脳のシステムを理解していたからである。
今、その苦痛が緩和されたのは筆記よりタイピングの方が速度が早いからだ。脳内の誰かが"読み上げて消し去る速度"より"タイピングで文章化する速度"のほうが追いついたからだ。これでようやく、自分の思いを文章化できるようになった。果たしてこんな類似の症例がいるのかどうか。
その"脳内の読み上げ"だが、正直声優さんの誰とは全く規定できないくせに、それでも"その配役の声は聞こえる"のだ。私の脳が"この役に誰かの声を当てている"のに、それが誰だか分からない。しかしアニメ化なり実写化なりして、肉声が充てられた時に、その役者さんなり声優さんなりのイメージがあまりに乖離していると嫌悪感を呈するが、"大概そうではない"のである。やれ漫画を実写化! といえば「自分のイメージと違う」などというのがSNSに出るのは風物詩ぐらいの代物だが、そこまで"アレ"なものは、あまり見ないんだがなぁ。
だから。「この配役はこの役者さんが良いと思っていたのにぃ!」とは言いなさんな。自分のイメージしていた物語の登場人物は、必ずしも他の人のイメージと重なるとは限らない。ただ、そのうち「これはこれで…」と思えたなら、その配役を決めた方に賛美を送ろうではないか。