大学入学共通テスト初日ですが、未だに国語の配点の半分が古文・漢文だと知って驚愕しています。
— 朝倉祐介 -Yusuke Asakura (@Jockey723) January 15, 2022
好きな科目でしたが、人生で一切役立たない教科の配点が50%もあるのはあまりにおかしい。他に必要な知識は多々あるのに教育が全く進歩してない。
古文・漢文教員の雇用確保以外に理由が見当たりません。
先に言っておくが。
俺はこの手合いの考え方が大嫌いだ!
なぜなら!
知識は必ず何かの役に立たねばならない義務でもあるのか!
今は役に立たなくとも未来永劫役に立たない確証あるのか!
そもそも我らの人生は役に立つだけのものしか価値が無いのか!?
「トリビアの泉」
今は昔。フジテレビ系列で2002年10月8日から2006年9月27日までレギュラー放送されたTV番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」というのがあった。トリビア(trivia)とは"生きていく上で何の役にも立たない無駄な知識、しかし、つい人に教えたくなってしまうような知識・雑学"のこと。番組も冒頭でアリストテレス、アイザック・アシモフの言を引用していた。「全ての人間は生まれながらにして知る事を欲する」「人間は、無用な知識を得ることで快感を覚える唯一の動物である」
この番組で紹介された知識は、本当に普段の生活には全く影響も利得も与えない雑学で、それでも"知る"ということそのものが受けて人気番組になった。審査委員長タモリを始め、ゲストの審査員がどれだけその知識に感銘を受けたかを「へぇ~」ボタンを押す回数で定量化したのも受けた。もっとも、その知識の量も限界はあるので、末期にはいくら何でも枝葉末節に過ぎるものばかりになって潰えてしまったが、それは仕方がない。
高校の部活遠征・修学旅行にて
博雅の三位
夢枕獏著『陰陽師』シリーズのキーパーソンである源博雅。最終の叙勲が従三位であったので「博雅三位」とも呼ばれる。安倍晴明との掛け合いは夢枕獏氏の創作であるが、実在の人物である。管弦、すなわち楽器の名演奏者で、それに纏わるネタがやたら多い。国語の教科書に掲載されているのは古今著聞集」巻第十二「源博雅の邸に盗人の入りける話」…源博雅の屋敷に盗人が入り財産をほぼ全部持って行ってしまったのだが、篳篥だけ残っていたのでそれを奏でたら、盗人にもその音が聞こえ、思わず感動してしまったので、博雅の屋敷に戻って「全部お返しします」となった、という話。
他にも「鬼と笛を交換する」「鬼に盗まれた琵琶を取り返た」「天皇主宰の和歌合戦で和歌の順番を読み間違える」「琵琶の名手蝉丸の家に名曲を教えて貰うためにストーキング毎晩通う」とか、枚挙に暇がない。小説『陰陽師』はこれらの「古典」をベースに物語を紡いでいるのであって、これらの逸話は、本当に当時の人々が書き記したことなのである。
漢文のススメ
落語で有名な「まんじゅうこわい」は、元ネタは中国の故事である。授業で扱ったかどうかは定かでないが、教科書には載っていたはず。
うわ、これ昔漢文の先生がくれた『饅頭こわい』の元ネタになった漢文だ。オチの「今度はお茶がこわい」まで同じなんだよね。 pic.twitter.com/VVn0zGFRUO
— 櫛 海月 (@kusikurage) February 23, 2016
- 鴻門之会
- オススメ
「人はパンのみに生きるにあらず」
『新約聖書』マタイ伝・第四章のイエス・キリストの言なのだが。あれぇ? 古典・漢文の話だったよなぁ? なぁに、西洋では古典・漢文が古典ギリシア・ローマ文学に置換されるだけの話で。
知識を得るとは、ただパンを得るため=生物学的生存のためだけではなく、"己が知識が広がることそのもの"を楽しむことなのだ。"知ることは楽しい"。それを本邦の義務教育は教えていないのが最大の汚点だと思ってはいる。先述の「鴻門之会」とて、そこだけを漢文で読まされても「はぁ?」となるのは致し方ない。楚漢戦争の一連の流れの中で、あの会合に至るのが分かってこそのあの話なのだが、まぁ、単に受験の道具にされている現状では、望むべくもなし。
"拒否権"
さて、最初の宣言に戻ろうか。冒頭の言の対偶。
知識は仮令役に立たなくても、それを知る喜びだけで十分だ!
知識など縦しんば今は役立たずとも未来どのような役に立つのか知るのか!
我らの人生が"役に立つ"だけで終わってなるものか!!
いいかい? 冒頭のtweetの最も危険であるのは「今役立たぬものは切り捨てよ」という、人間を"利得を目的とした道具"としか見ていない、恐るべき理念の端緒であることはお気づきか? "役に立たぬものは切り捨てよ"というディストピアの始まりであることに。そうあってはならぬからこそ、"役に立つ"="パン"以外のものを有することで、我らは生きるべきなのである。
兌換不能
いや実は、俺の後輩がそう考えていたようなので、今回も気づいたのだが。
「人生で一切役立たない教科の配点が50%もあるのはあまりにおかしい。他に必要な知識は多々あるのに教育が全く進歩してない。」
あのね? 能力って、"等質に他に割り振れるもんじゃないんだよ?"。その個人がすごく興味関心があることは、他人には信じられないぐらいの速度で習得することがある。では、その"習得速度"を"他に割り振った—正しくば『そんなことよりも「こっちに集中しろ」』と強制をかけた—として、"同じ速度で習得する"とでも思っているのか? 『HUNTER×HUNTER』でヒソカが「メモリの使い過ぎ」と表現していたが、興味のない・本来の属性のないことに能力のリソースを割り振るのは、全くもって等価ではない、自分の属性と異なる技術の習得には、凄まじい時間と苦労と能力の浪費がかかるのである。それがどうしても必要ならば最低限は仕方がないにせよ、「役に立たないことに能力を使うより必要な知識に能力を割け」という考え方には、心底反吐が出るのである。
いつでも大学院生
こう考えれば、何故子育てを終えた主婦が大学院生になることに対しやたら批難が集中するのも理解できよう。非難する人間は、「学問は役に立つだけのものしか価値が無い」という硬直した功利主義に懲り固まっているからである。しかし学問の本質は「トリビアの泉」の冒頭言の如く「全ての人間は生まれながらにして知る事を欲する」「人間は、無用な知識を得ることで快感を覚える唯一の動物である」
学問宣言
故に私はもう一度簡略化して宣言する。
知識を知る喜びで十分だ!
人生が"役に立つ"だけで終わってなるものか!!
*1:ってかどうせいっていうんだ