俺が長年考えても理解できなかったことがある。
「なぜ一部の撮り鉄は撮影場所にそこまで固執するのか」
自分にはそういう概念が無かったので理解できなかったのだ。
不意に気づいたのだ。
彼等の望むのは「確定された未来」だったんだ。
俺が撮影の対象にしているのは基本は風景だったり動物だったり、星や雲、空そのものでもあったりする。それらは一度たりとも同じ姿を見せない。例え同じ場所に立っても、風景が同じであることなどあり得ない。縦しんば動物園の動物であったとしても、その表情や動作は予測不能、一度とて同じ絵は撮れないのである。その中で、反吐が出るような思いでいくつもの駄作を排除している中に、自分の心を射止めた"素敵な絵"を得た時に、この上ない喜びを覚えるのだ。
俺はそれが当然だと思っていた。
しかし考えてみれば、少なくとも日本においては、余程の事情が無い限り、列車は事前の予告通り動く。
つまり、"特定の時刻に特定の風景の中に特定の列車が来る"、これから撮れる絵が最早確定されているのだ。
あとはその確定された絵を撮るのに必要な位置を確保するだけだ。
そして同じ構図の絵を撮ろうとするから、必然、その絵が撮れる位置に密集する。
そして、その確定された未来を邪魔する因子に対して、異常なほどの敵愾心を燃やすのだ。
彼等にとって、未来が確定されないことは、自分の権利を侵害されたのと同じだから。
予想外のことなど、あってはならないのである。
"確定された未来"を得る「未来測定」など、異形のものにしかできないというのに。
この世界は不確定な未来の中だからこそ見える、数多の可能性に満ちあふれている。
それでも、そのあやふやな未来の中に思う「未来予測」にこそ、喜びと希望があるのではないのか。
彼等は、それを知らなんだ。