「誰も悪くない」などという結論には、ほぼ間違いなく、至らない。仮令事実としてそうであったとしても、それではマズいことが発生するからである。
- 誰かが悪くなければ、自分の悪性を否定できない
- 誰かが悪くなければ、確率論的に発生する不幸な結末を了承できない
皆口々に言った…
テレビが悪い、ゲームが悪い、漫画が悪い
親が悪い、学校が悪い、社会が悪い
だが誰一人として
この世界を築いた自分達が悪いとは言わなかった
◆JbSHgdOVNE 「2ちゃんねるモナー板 山奥のしぃ先生」 198話「帰郷」より
この世全ての悪などと笑わせる。
その異名は人間の総称だ。
おまえたちが造り上げた鏡を見ろ。
我が罪はすべて人が造り上げたもの。
喜ぶがいい人の子よ。君は、あらゆる悪を再現可能だ。
恐れたのは悪心ではなく、悪心を祭り上げた自身の脆さを恐れ続けた。
石投げる行為に愉悦を。
感覚を鈍麻させ、道徳を麻痺させて、醜いモノに変わっていく。
この過酷な世界において。
我々は、憎しみなくして生きてはいけない。
未来永劫、癒される事はない。
中身を覗けばおぞましい肉食の群。
ガチガチと牙をならし、入ってきたものを食い散らかす。
まるで怪物の水槽だ。何人であろうと、自身の深層を見れば生き汚さに嘔吐する。
…ああ、それはきっと。魯迅が「藤野先生」で語る、“フィルムの一件”の情景に相似して。
だが、わたしはつづいて中国人が銃殺されるのを参観する運命にでくわしたのである。第二学年には細菌学の授業が加わった。細菌の形態はすべて幻灯で示されたが、それが一段落してもまだ放課の時間にならないときには、時事的なフィルムが映された。当然それらはみな日本がロシアに戦勝している場面だった。ところがたまたまそのなかに中国人が混じっていたのである。ロシア人のためにスパイをして日本軍に捕えられ、銃殺されようとしているのだが、それをとりかこんで見ているのも中国人の群集だった。教室の中にはもう一人、わたしもいるのである。「万歳!」彼らはいっせいに手をたたいて歓声をあげた。 —この歓声は、一枚を見るごとにいつもあがったが、わたしにとっては、その声はとくに耳を刺すようにきこえた。その後、中国に帰ってきてからも、わたしは銃殺される罪人をのどかに見物している人たちを見たが、彼らもまたどうしてか酒に酔ったように喝采するのである。——ああ、もはや何をか思うべき。だが、そのときその場で、わたしの考えは変ってしまったのだった。
魯迅 「藤野先生」