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言霊返し

辺境防衛半人前血液内科医の戯言シリーズ。ではどうぞ。

言霊の呪い

事の発端はNATROM氏のこのtweet

それに対して、ちりん先生の返答。

じゃあ「死ぬ」と説明したらしたで、「死ぬって言ったせいで死んじゃったじゃないか」と始まる訳だが。

「言霊信仰」に関しては井沢元彦氏の著作を読んで頂きたいのだが、要は「言葉を口にするとそれが現実になる」と信じることである。日本人に広く見られる“信仰”なのだが、宗教オンチの日本人は、それが当たり前になっていることもあってますます、それが“宗教”であることを認識できない。しかも奈良・平安時代からの日本人の伝統だけに、そう簡単に吹き払える代物でもない。結婚式で「切る」「割れる」などを口にしてはいけない、というのは卑近な例。でもケーキ切ってるんだけどね(故に「ケーキ入刀」という表現になるのだが)。
「言霊信仰」最大の弊害、というか最早“呪い”の類なのだが、「都合の悪い情報を正確に伝えられない」というのがある。何せ「口にすると現実化してしまう」のであるから、滅多なことは言えないのである。前述の井沢元彦氏は著作の中で本邦の有事体制の不備の一因にこの言霊信仰が関与していると指摘している。有事の場合を想定しての法制を整えなければ国土の安全は保てないのに、その法制が全くないのは「それを明文化すれば本当に有事になってしまうから」。逆の弊害もある。当Blogで「9条教」と皮肉っているが、「言霊信仰」では「言葉を口にするとそれが現実になる」ので、「平和、平和」と唱えていれば本当に世界が平和になると信じている輩が、この国には多すぎるのだ。

現実を直視しない人間の業

そしてこの「言霊信仰」は、ある人間の業にとって、非常に都合が良いのである。「自分に都合の悪い現実を直視しなくてすむ」からである。

「現実主義者は、それが個人であっても国家であっても、なぜ常に憎まれてきたのだろう」
(中略)
「現実主義者が憎まれるのは、彼らが口に出して言わなくても、彼ら自身そのように行動することによって、理想主義が、実際は実にこっけいな存在であり、この人々の考え行うことが、この人々の理想を実現するには、最も不適当であるという事実を白日のもとにさらしてしまうからなのです。
理想主義者と認じている人々は、自らの方法上の誤りを悟るほどは賢くはないけれど、彼ら自身がこっけいな存在にされたことや、彼らの最善とした方法が少しも予想した効果を生まなかったことを感じないほど愚かではないので、それをした現実主義者を憎むようになるのです。だから、現実主義者が憎まれるのは、宿命とでも言うしかありません。理想主義者は、しばしば、味方の現実主義者よりも、敵の理想主義者を愛するものです」

塩野七生 「海の都の物語 1」

海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

「言霊信仰」のために自分に都合の悪い情報が伝わるのをブロックでき、それが現実化したらしたで「そんな縁起でもない事を言ったからこうなったんだ。お前が悪い。」と責任転嫁する格好の口実が出来上がるからである。「Double Side 〜こんにゃくゼリー問題について2側面からのエントリ〜 事故と非事故の境界」でも述べた事であるが、「他者の責任であるのなら、少なくとも自分の責任ではない」のである。「言霊信仰」は、それに格好の根拠を与えるのである。
以上の事を踏まえれば、我々医療者が説明のときに「死ぬ」という直接的な表現を避けるかが分かるだろう。そう言ったら言ったで「『死ぬ』と口にしたからそうなった。お前のせい」となる。では言わなかったら言わなかったで「そうなるとは聞いていない。どういうことだ」になる。
だが、それを笑えないのだ。現実を直視できる胆力を、誰もが持ち合わせている訳ではない。「現実を直視したくない」人間の弱さは、誰でも所有うるカルマである。それを嘲笑するだけでは、何の解決策にもならない。寧ろ「『現実を直視したくない』人間の弱さを直視できない」のでは話にならないのである。

ならば全て口にする

ここからが持論である。「言霊」は「言霊」で上書きするしかないと最近は考えるようにしたのだ。
昨今の医療訴訟のせいで、どうしても起きうる合併症を羅列しがちである。可能性は少ないとはいえども0ではない以上、説明はしなければならないが、かといってそれだけに終始していては流石に相手が辟易するのは当然というものである。それは“婉曲な表現”を使えば回避出来るものでもない。寧ろ前述の通り、婉曲な表現では情報が正確に伝わらない危険が高い。
であるならば、それこそ「今晩中に死ぬ可能性もある」と単刀直入には言うが、その後に必ず一つ付け加えることにしている。「しかし、坐して死を待つ必要もないし、みすみすそうさせるつもりもない」と。もし、終末期で“どうにもならない”としても、やっぱり言い様はあるものと信じて実践している。「今晩中に亡くなる可能性が高い」「だが何も苦しんでそうなる必要はない。やってあげられることはまだある」。
まぁもっとも、血液内科だからこう言える、という可能性はあるかもしれない。急性白血病にせよ、悪性リンパ腫にせよ、初診時は重度感染はあるわ播種性血管内凝固症候群はあるわ、腎不全はあるわで碌でもない状態からスタートしていることが少なくない。それこそ本気ガチで“今晩中に死ぬ可能性もある”。が、手を尽くせば意外と一旦は病勢が改善することが多い…いや、支持療法に必要な薬剤の登場の賜物だから“多くなった”と表現すべきかも知れない。但し、当然ながらそれが治癒や寛解に直結するとは限らない。時間稼ぎにしかならないこともある。だが、今死にかけの患者がいて、一旦は持ち直して本人や家族が現実を受容し、身辺整理をするための時間を構築できるなら、その“時間稼ぎ”は無駄ではあるまい。そう思っている。
婉曲な表現は使わず現実は直視して頂く。しかしそれによって得られる可能性も並列して説明することは罰にはなるまい。また「100%治ります」などどいう嘘など言う必要もないが、「何とかなるよう全力を尽くす」と志を宣言するのはバチは当たらないとは、思うのだが。
自分の選択が正しかったのか、自問自答し続けるのは結構。しかし患者家族への説明まで自虐に尽きる必要もない。それが最近の私の考えなのだ。

さて、結果は?

これが単なる若気の至りか否かは、今後の俺の人生の結果が証明してくれるだろう。さて、また頑張って働きますかね。

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