誰しも生きたいと願う。だけど誰かの、何かの犠牲無くして、生きてはいけない。“生きること”そのものに、等価交換を要求される。生きる事そのものが罪悪なのだ。その罪悪は、“自己”の保存という生命の原則と、その原則が他者への犠牲を要求してしまうことを厭う“愛”との矛盾・軋轢から生じる。ならば、そのどちらかを切り捨てれば、その罪悪の苦しみから解放されよう。
他者を傷つけても何の哀しみも抱けなくなるほど、エゴの塊として生きていくか
他者を傷つけなくて済むよう、自分自身を殺してしまうか
而してその対極をなす生き方のどちらもが、根源を同じくする。原罪の否定である。“愛”を忘れた生命はもはや人ではなく、後者の儚い生き方は己の罪悪から目を背ける為のものであるのなら、その人生には後悔しか残らないだろう。
繰り返すが、生きる事そのものが罪悪なのだ。それが人間の在り方である。奪わずには生きていけない。奪われたものを取り戻すことも出来ない。而してそれを補填することは、或いは可能かもしれない。我々には“道具”がある。科学技術しかり、経済しかり、律法しかり。奪うものはより少なく、補うものは奪われたものにより近く。その永久の漸近の果て——極限値が“全て遠き理想郷”なのだろう。人として生きるのは、その漸近の過程、原罪と向き合う、永劫の闘争なのだ。
そしてもし、その漸近の過程に私が与することが出来るなら、私も人であった、と最期に呟くことが出来ると思うのだ。