BSL当初は、俺も「単に自分は理想を演じているだけなんじゃないか」と自己に疑念を抱いていた。それこそ
患者さんを鏡にして、自分の”善”をそこに投影したかった。
という記述は本当に的確だ。
でも、BSLが始まって程なくして、そんな考えは、止めた。
なぜなら。
相手が笑ってくれれば、俺も笑うだろうし、相手が喜んでくれれば、俺だって喜ぶ。感謝されれば、嬉しい。それは至極当然の事で、そのことに負い目を感じることも、疚しい気持ちを覚えることもないなら、わざわざ“自分は何て偽善者なんだろう”と卑下する必要など、ないのだから。素直に受け入れればいい。何故なら、例え意識下にどのような思惑があったにせよ、相手の様子を見て覚えた感情に、偽りなどないのだから。
まして、相手の反応を見るまで不安だったのなら、尚更である。「当然感謝されるべき」などと思っているのなら、それは非難されて然るべきだろう。だって、相手がどういう態度を示してくるか分からないうちに、「感謝されるべき」などと思うとは、事実誤認も甚だしかろう。「喜んでくれているといいなあ」と願うことと、「感謝してくれるだろう」と予想することは、全くの別物だ。自分では正しいと思っていた事も、実際にはそうでなかったかもしれない。いや、仮令正しかろうと、相手はそう思ってはいないかもしれない。「自分が他人にしてもらいたいことは、他人にしてやるなかれ。他の人の趣味が自分と同じでないかもしれない。」と言うBernard Shawの言葉は本当に真実で、いつだってそんな不安を抱きながら、行動している。その不安の上で、相手が喜んでいるのを見てこちらが嬉しいと思うことに、非などあるのだろうか?
それに。「自分は偽善ぶっているだけではないだろうか」と勘繰ってみたところで、それが何の役に立つというんだい? 負い目や疚しい感覚を覚えているなら兎も角、意識下にあるものなど、疑えば限りが無い。それ故、「今度はそうは思わないようにしよう」と考えたところで疑念が晴れることはないだろう。だのに、偽善だから行動するのを止めよう、とでも言い出すのだろうか?
まぁどうせ、偽装の気持ちなど、見る人が見ればすぐ化けの皮が剥がれるものだし。
そんなこんなで、わざわざ自分の気持ちに疑念を抱くのは、止めたのだ。寧ろ、自分の感情を疑うことは、相手の感謝まで否定することに繋がりかねない*1のだから。
但し。仮令どのような感情を覚えたところで、それは自分自身のみの事象であって、相手にも、また他の人にも、何ら用を成すところではない。喜んでくれたのなら「次はもっと喜んでもらえるよう頑張ります!」と次の行動に打って出なければ。自分に不備があったのなら、次までにそれを改善しなければ。次が無いのなら否、あろうとなかろうと、他の人にも喜ばれるように。反省というnegative feed-backと、喜びというpositive feed-backを繰り返し、行動を拡大展開していかなければならない。感情は、他人には明らかには分からない。故に、その存在を認めてもらいたくば、その感情を起源とした行動により、結果をもたらさなければ。自己に対する疑念で、ウダウダ悩んでいる時間は、もう惜しいぐらいなのだから。
*1:2004年12月3日の記事を参照。