もう老い先短い両親を旅行に連れ出す。なにせ"行ってみたい"と思うのだが"そんなに金がかかるなら別にいいや"と思ってしまうのだ。つまるところ、俺が金を出せば、行くつもりはある。
とはいえ、先のコロナ禍でどこにも連れて行けず、その間に両親はすっかり老け込んでしまった。もうそれほど連れ出す機会はないだろう。俺としては正直、焦ってはいるのだ。
で。今回母が希望した某所に連れ出す予定(親父は「美味いものが食えればいい」という価値観なので)なのだが、自分一人で気ままに出歩くのとは違って、制約がかかる。
- 母は大腿骨頭壊死を患っているので、長距離の歩行はできない
- 乗り換えは最小限にしなければならない
- 観光地以外の歩行距離はできるだけ短くしなければならない
- できるだけ立ったままにしない
- 父は利尿薬内服中のため、常時トイレに行ける環境がなければならない
- トイレの無い列車・バスの長距離移動は不可
となると、だ。
1. の条件のため、快速と特急で所要時間に大差はないにしても、指定席券を確保できる特急を敢えて利用する。
2. の条件のため、山陽電鉄の長距離快速列車の使用は棄却。乗り換えは多くなるがJRを利用することにする。1. と矛盾するが、乗り換えが最短ルートになるよう、乗り換え駅の構内図まで把握しておく必要がある。
「Time is money (時は金なり)」という格言がある。これをどう解釈するかは各人に任せるが、俺の解釈は「金で買える"時間"があるなら買う」である。
- "より早く"旅をするのに、俺は代価を支払う。節約した時間で訪問地で過ごす時間が長くなるなら、代価に十分である。
- 足の悪い母を、確実に着席させられるのなら、代価に十分である。
- 頻尿の父の、お漏らしの恐怖を耐え忍ぶ時間が無くなるなら、代価に十分である。
逆に言うなら。深夜バスで"お尻の肉が取れる夢をみる"としても、若いなら耐えられるだろう。コストを削減した結果に払われる"代価"も、またあるのである。俺はそれを否定したりはしない。ただ、"代価"も支払うことなく"安価"な要求をするのには、同意しかねるだけの事。
旅行で「金をかける・かけない」とは、正負の違いこそあれ「代価がある」そういうことではないのかね。