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「理想を抱いて溺死しろ」

カルネアデスの板』という命題が在る。

ある船が難破して乗客が海に投げ出されてしまった。一枚の板が浮かんでいて、一人がそれにしがみついた。それを見て、他の人もその板にしがみつこうとする。しかし一枚の板には一人しか乗れなかった。それで、先のしがみついた人が、あとからしがみつこうとする人を海に投げ出してしまう。これを罰することができるかどうか。

…この世界のあらゆるものには、“限り”がある。資源にせよ、マンパワーにせよ。
上記の命題ほど切迫状況にあるかどうかの差異はあるとして、resourceに限りがある以上、出来ることにも限りがある。理想的な事柄が確立されているとて、それを実現できるか否かは、また別の問題である。
…はずなのだが、そのあたりの事柄が分かってないと思われる事象が見受けられて、石鹸でも喰わされた様な気分になる。“似非理想主義者”達は、兎角、皆が生き残ることの美徳性を強調したがる。人を殺してまで生きて恥じることは無いのかと。…しかし、彼等の言い分に従って、全員で一枚の板につかまれば、間違いなく全員水没する。その結果に言及することなく、ただ美徳のみを強調することに終始し、結果として全員に死ねと言う、これが“似非”たる所以である。
が、偶にこの方法が効を奏する時がある。仮令短時間でも、全員で一枚の板につかまってその場を凌ぎ、水没する前に板が追加された場合である。この場合、全員助かる可能性がある。ほらみろ、全員助かって素晴らしいじゃないか、と。…が、勘違いしてはいけない。この場合、理想の故に助かったのではない。板が追加されたから助かった=命題の前提が破壊されたから、然るべき結果になっただけの事である。なぜ“似非理想主義者”らは、板を追加しようとしないか。それは、現実を見ていないからである。
同語反復tautologyではあるが。理想が理想である限り、それは理想であって現実ではない。理想を理想のまま終わらせないために必要なのは、それ相応の結果をもたらすべき現実における手段の行使であって、理想の美しさを強調することではない。——しかし、前述の通り、行使するための資源が限られている—命題で言うならば、板はどう頑張っても1枚しかない—以上、非情な選択を迫られる事態は、必ず発生する。現実は、何時だって非情だ。その選択を突きつけられた時、貴方には選択が出来る覚悟はあるか? カルネアデスはそれを問うているのである。そしていかなる選択をしようとも、“理想の国の住人”に、その選択をした者についてとやかく言える権利は全くない。だのに、選択した者を嘲笑う似非理想主義者は、理想の美しさを理解できない者と同程度に、愚か者であろう。

「一つの世界が滅びようとしていたのです。そこで行われる判断は二つあります。どんな手を使っても生き残ろうとするか、諦めて滅びるか」
モイラ1stは問う。静かに、しかしはっきりと。
「前者を選ぼうとしたこと。もしくは選ぶ人を前にしたことはありませんか? 姫様」

川上稔終わりのクロニクル 3<上>』

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