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Aŋra Mainyu Ⅱ

最近流行の「成分分析」をパクった表現をするならば。
「この世界の100%は理不尽で出来ている」
そりゃ部分的に見れば“幸福”や“救い”というものもあるだろう。だが、“幸福ではない”モノもいる。“救われない”モノもいる。…いや、もっと皮肉的に言うなら、“救い”は“救われていない”前状況があって初めて成立するものだ(最初から“救われている”人間なら、新たにそれを認識する必要性がないから)。それに、だ。Hikkiの歌*1ではないが、この世界は必ず幸福の影に誰かが不幸になるという摂理を有する。
しかもその当事者に誰がなるかという選択に理由などない。確かに、事象には原因が存在する。ただ、その事象が生じるのが誰であっても構わないのである。凡そ苦しむ者たちの怨嗟を聞け。「何で私が」「何で俺なんだ」。
それを理不尽という。この世界は、陰陽の万事を許容する。それが人災か天災かを問わず。それがこの世界の真理。

喜ぶがいい人の子よ。君は、あらゆる悪を再現可能だ。

故に。人間が選ぶべきは2つだ。その理不尽、抵抗するか、許容するか。
その判断は各個人の自由意志に任されよう。その何れも正解にして不正解。何人とて他者の人生を肩代わり出来ないならば、そこに自由はある。許容はその理不尽を不可避にし、抵抗は新たな理不尽を招きうるのだから。
だが。
そのどちらも選択できないならば。誰かが人生を肩代わりしてくれると思っているならば。それこそ罪というものである。この世の摂理に目を向けられない者。自分が“救われない”状態になりうるなど、露ほども思っていない者。ソレこそが罪人だ。誰かを罵倒出来るのは、自分が罵倒される立場に今後なり得ることを考えられない者のみがすることだ。この世界が理不尽であることを認められない者は、自分の自由意志を行使する事さえ出来ない。
私が腹を立てるのは、理不尽に対してではない。その罪に対してである。

*1:「誰かの願いが叶う頃」のこと。

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