関係のない人間、反対をしない人間は、それだけであらゆる不幸を肯定している。
その不幸は覆らない。なら、何者かを犠牲にして立ち行っている幸福を甘受できなくてどうする。
人間はそう簡単には死なない。秒単位で処置が遅れれば命に関わるのは、それこそACLSで叩き込まれるような状況に限られる*1。それ以外は、“少なくとも分単位”での施行猶予が与えられている。
…ということは、優秀な医師ほど分かっているらしい。だからどんな些末な事でも「…なんじゃないですか?」と問うた段階で、「それが確かな情報か調べて来い」って指示に繋がる。もし、指導者が気付かないようなことが改善の手筋に繋がるなら幸運、もし、それがα-errorなら、“オレか誰かが責任をとるだけで済む”のだから、安いものである。
誰しも、過ちはあり得る。それに疑問を呈するのは、十分な機能の一つだと思うが、どうだろうかね。その疑問を鵜呑みにしても、看過しても、実施/監督者の責任に帰すあたり、我々の“特権”だと思うけどね。
…まぁ勿論、ACLS受講ならびにありったけのEBMを叩き込んでおくのが、最低条件にはなるけれども。
*1:だからこそ誰しもがACLS/ICLSやBLS講習を受けておく必要があるのだけれど。