…やれやれ、学問というものの本質が分かっていないとは、何とも物分かりの悪いことで。
学問とは知識の集積であるが、知識はそれ単体では、せいぜい“へぇボタンを押す程度”の価値しかない。知識を駆使し、この度し難く救い難い世界に介入することこそ、知識を得たものの最終目標である。
現実はまったく教科書どおりにはなっておらず
の言葉は、“大変素晴らしい知識体系”*1とやらを使いこなせないとわざわざ自白しているようなものだ。要するに、“その程度の能力”であった、ということで。
学問も知識も技術も、役に立ってなんぼ。2000年も前から、そう言われてきたというのに。“物分かりの悪い”とは、そういうことだ。
公輸子削竹木以為鵲,成而飛之,三日不下,公輸子自以為至巧。子墨子謂公輸子曰: “子之為鵲也,不如匠之為車轄。須臾劉三寸之木,而任五十石之重。故所為功,利於人謂之巧,不利於人謂之拙。”
[訳]
公輸子が、竹と木を細工して、かささぎを作った。ささぎが出来飛ばして見ると、三日間(飛び続けて)降りてこなかった。公輸子は、自分のことを最高の技術者だと思っていた。墨子は公輸子に言った。「あなたがかささぎを作った(技術)は、大工が車輪のくさびを作る(技術)にはかなわない。(大工は)あっという間に三寸の木を切って、五十石の垂さに耐えるものを作ってしまう。つまり、作ったものが、人に役立つものならば立派な技術だと言えるが、人の役に立たなければ下等な技術にすぎないのだ。墨子 『魯問』
*1:上記引用部分と同一のエントリからの引用