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appendix

言いたいことはいろいろあれど、とりあえず通常業務がやたら忙しすぎたため「あとで読む」タグを付けてブクマに放り込んでおいた上記エントリだが、ようやく時間が出来たので、俺もエントリを立ててみようと思う。もう何周遅れだか分かったものじゃないが(藁)。おk?

“個性礼賛”を冷笑する程度の能力

余り多くは語りたくはないが、俺もこれでも幼少時より周囲から“変わり者”と称されて生きてきた身である。その状況は物心ついた時期から現在に至るまで変わりはしない。その“変わり者”っぷりを「個性」と称するなら随分な美称だが、“変わり者であるが故の憂き目”も知っている以上、“個性礼賛”など、冷笑に付す以外の何者でのないのである。何故か?

「人とは違います・人と違って生まれついてしまった者は、人の世に馴染めませぬ。かといって、死ぬるわけにもいきませぬ故、何かで、死ぬまでの時間を埋めねばなりませぬ」
(中略)
「人と、何か違うというのも、何かが人より優れてしまうのも同じです。そういうことでは、お淋しいのは、晴明さま、あなたも同じでございましょう」
(中略)
「博雅さま、あなたも同じでございますよ」

夢枕獏陰陽師 付喪神ノ巻」

陰陽師―付喪神ノ巻 (文春文庫)

陰陽師―付喪神ノ巻 (文春文庫)

“個性”とは、“他者とは異なる性質”であり、それは即ち“他者との隔壁を生じる起因となる”ことと同義である。起因と表したのは、必ずしも隔壁とはならない場合があるからで、それはつまりその他者と異なる性質が、他者にとって需要があるか否かの一点にかかるだけのことである。上記リンク先のエントリの結論である『使えない個性は、要らない個性。』とは、とどのつまりはこういう事である。もし、他者にとって需要がない性質が個性なら、他者との隔壁を生じさせるだけの文字通り不良債権でしかなく、ましてや他者の利潤を阻害するような性質を帯びた代物なら、迫害に足る根拠になりかねない(実のところ、そうなくても他者とは異なるというだけで迫害の根拠になりうるのだが)のが「個性」である。
そういう危険を孕む“個性”とやらを礼賛していた連中は、このリスクを背負わせる事を想定していたのだろうか?

需要の未来不透明性

『使えない個性は、要らない個性』。言ってしまえばそこまでだが、実はここにも落とし穴がある。「使えない」と評価するのは一体、いつ。どこで、誰が評価するものなのか?
例えばの話をしよう。何らかの理由で四肢が不自由な人がいたとしよう。勿論それは一つの「個性」である。ただ、古代オリエントなら、あるいは現代でも後発展途上国のど真ん中なら、その「個性」は生存する上での障害でしかあるまい。しかし、科学技術が発展した現代で、かつその行使が卓越した者であるなら、それもまた「個性」であり、他者の需要に十分応えうるものになりうるのである。具体例ならそれこそ「車椅子の天才」を出さずとも、星の数ほどあろう。障害handicapという“個性”が、必ずしも『使えない個性』に該当しない場合がある。ただし、この場合には条件がある。それは、それ相応の実績を提示し、『使えない個性』ではないということを予め否定する必要がある。
ところが、もう一つのケースが存在する。まさか需要があるとは予期できなかったが、結果的に需要が生じてしまったケースである。上記リンク先のエントリでニコニコ動画の例が提示されていたので、それに準じると、「全農連P」の例がある。
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ニコニコさんに詳しくない方はご存じないなろうが、既存の洋楽・邦楽に吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」をマッシュアップした作品をニコニコ動画にUpした結果大流行し、「日経エンターテイメント」の取材を受ける羽目になり、最終的にはニコニコ動画吉幾三氏本人を動かす結果になった張本人である。とはいえ、勿論流行を予期してしたことではない。それどころか上記リンク先の「ニコニコ大百科」の記載にあるように、「インターンを3日でクビになるという衝撃的な現実を目の当たりにして気が動転して吉幾三Perfumeを混ぜた」のであり、前例とは異なり、まぁお世辞にいっても元々何からの実績を予め提示できていた訳ではない。マッシュアップの個性が結果的に需要に適合した例である。こういう例もあるから、『使えない個性』という評価が、未来にわたって通用するとは必ずしも言えない訳であり、そういう意味では、すべての個性にはチャンスがあるのである。勿論、こういう例が実際に多いかと言われれば、疑問を呈さざるを得ないが。

個性と没個性の両立

結局のところ、山奥に一人隠居するのでもなければ、人間は他者との関わりなくして生きてはいけないのであり、他者との隔絶を来しうる“個性”だけを礼賛しては生きてはいけないのである。勿論、「個性」を全面に打ち出して生きていく人生を否定はしないが、それはそれ相応のリスクを負い、その個性とやらに殉じる覚悟を有する者だけに許される人生であるという覚悟を決めた場合だけにして頂きたい。「自分探し」とかのたまいながら、結局他者に依存しなければ生きていけないなら噴飯ものであり、まして他者の利潤を損なう行為にでるなら、容赦なく弾劾することになるだろうから。
リスクを負いたくないなら、個性を捨てて没個性の海の中に沈んでしまうのも一つの手である。それでも「個性」を捨てたくないというのなら、両立させることだ。他者との化関わりに隔たりを来さない程度に個性と没個性を使い分けていくのが、最も穏当な方法に思われる。それが“変わり者”と称された人間の行き着いた結論である。「変人」のタグは社会で生きていく上での免罪符にはならないのなら、「個性」の発動時期を冷徹に観察しながら、時来たらば一種の博打の如く「個性」を発動させる。そんあ生き方は、一件面倒かつ厄介ではあるが、最終的結論として最も穏当な結末を迎えられそうな気がするのだ。「個性」とは、結局のところ人生のappendix付録でしかないのでは、ないだろうか。

身も蓋もない話をすると

どうのたまおうが、所詮はいちbloggerの妄言でしかない以上、終いに言えることは「好きに生きたら?」。人生の結末などインシャ・アッラー神のみぞ知るだろう?

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