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To Do Or Not To Do?

上記の件について。ではどうぞ。

まず始めに

あらゆる残酷な空想に耐えておけ
現実は 突然 無慈悲になるものだからな
いつか来る 別れ道に備えて

冨樫義博HUNTER×HUNTER

HUNTER X HUNTER 1 (ジャンプ・コミックス)

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評価すべき点

  1. 男児を救命出来たこと
  2. 病院・児童相談所家庭裁判所が連携し、半日で決断が為されたこと

第一の項目については、よもや論ずるまでもないだろう。
第二の項目だが、すでに上記のNATRON先生のエントリのブクマページでのコメントで、親権停止という強権発動が短時間に為されたことへの警戒が複数述べられている。が、今回の一件は半日で為されなければ意味がなかった。寧ろ、半日でも遅かったことが危惧されただろう。理由は上記の47newsの文中にある「ショック状態となり」の一言である。
ショックとは要するに、脳への血流を維持するために必要な血圧が確保出来なくなった状態である。以前のエントリでも書いたが、脳に血液が供給されない事に対する医療介入は、すべての医療行為の中で最速最優先にされるような事態だ。ましてや1歳の体の小さい子供だ。大人ならわずかの出血でも、子供にとっては大ダメージだ。支障がなければ大至急輸血したい事態であったことが予想される。だから、半日でもなお遅い。
ただ、強権発動故に時間を要するのは止むを得ないとも思われる。ましてや、もしどこかの部署が“お役所仕事”をかまして迅速な決断がなされなければ(日本の官僚体制はとかくこういう前例の無い事態に対する柔軟性・即応力に乏しい)、半日で済んださえ怪しいところである。そういう意味では、十分賞賛に値する点だと思われるのだ。

さて、問題は

このエントリ書いている間にもう早速ホッテントリ化してるが(藁)。Disり合いは“はてな村の挨拶代わり”、一種の恒例行事なので傍に置いておくとして、とかく関心が集まるのは以下の理由によるだろう。

  1. 救命が優先か、信仰が優先か
  2. 親権に対し司法がどこまで介入することが許容されるのか

実のところ、これらの項目が複合しているから話がややこしくなる。すこしずつ話を進めていくことにする。

救命が優先か、信仰が優先か

実は、事実上この問題は解決済みである——成人においては。答えは「信仰が救命に優先する」である。そういう判例が既に出されていて、しかもそれが最高裁判決であるから*1
救命を生業にする我々医療関係者にとっては、輸血さえすれば救命出来た可能性の高い疾患をみすみす見逃す羽目になるので忸怩たる思いだが、宗教への信仰とは、そういうものである。以前にも書いたが、「宗教とは信仰対象に対する絶対的服従であり、それによって命を落とすことも本望と言わしめる“概念”である。命惜しさに信仰を捨てるのは、もはや宗教ではない」のである。信仰に殉じるのもまた一つの自由、NATROM先生が以前指摘していたような輸血医療に対する誤った認識からくる拒否ではなく、あくまでも信仰に殉じるというなら、その決断を尊重すべきではあるのだろう。「人はパンのみに生きるにあらず」ではないが、人生というものは、生きていれば良い、とは、必ずしも言い切れないものなのだから。
ただし、その決断と覚悟は貴方だけのものだ。そしてその結末の責任は決断した貴方のみが負う、というのであれば、という大前提が守られなくては、この限りではないのだ。

子供に責任能力は問えないのなら

物心ついた思春期以降ならともかく、1歳児が信仰や輸血拒否の意思表明など出来る訳がない。まして、決断に対しその結果に対し責任をとるなど、出来る訳がない。だから、成人では成立した「信仰が救命に優先する」原則が、ここでは該当しない筈である。
子供に責任能力が問えないから、保護者である親が責任者となり、意思決定能力が未発達・不十分であるから、親がその意思決定を代行する「親権」が発生するのである。で、ここで新たな問題が発生する。おそらくは、今回の一件のミソは、ここにある。

  • 「親権」には、子供への信仰・教義への服従を強制できるのか?
  • 強制の結果子供が亡くなってしまった場合、親は「責任」を負えるのか?

まず第一に、親族は子供を養育する“義務”はあるが、間違ってはいけないがこれは“権利”ではない。結果として生命の危機に陥るような事態を強制するのは「養育」ではない。また、憲法で生命の保証が謳われている以上、仮令自分の子供だとしても、“自分ではない”人間に対し生命の危機に陥らせるような行為は「権利」にならない。「親権」にならないと考えるべきである。
第二に、何人も生命の喪失に対し“責任”など取りようがない。出来るのは“償い”だけである。仮令親が「輸血を拒否したことで子供が亡くなろうと、それは自分の責任だ」と言ったとしても、とりようのない責任をどうやってとるというのだろうか?
第三に、親は子供を養育する義務があるが、養育は親だけで為されるものではないのである。地域から国家に至るまで、社会全体で養育とは為されるべきものである。それ故の義務教育であり、社会が養育の機能を果たせない事例があるからこそのUNISEFである。もう一度言うが、親族は子供を養育する“義務”はあるが“権利”ではない。15歳未満の信者には輸血を行う、と輸血学会・小児学会等6学会が指針を出した*2際、「子供は親の所有物ではない。社会が守るべき存在だ」との発言があったが、要はこういうことである。養育とは、親だけが行うべき事ではないのである。そうだからこそ、親が輸血を拒否し、公権力(司法)が輸血をせよとした、2者の意見が対立した場合、必ずしも親の意見が優先されるべき事には、特に今回子供の生命がかかっているような場合には、ならないのである。
あと、ひょっとしたら「尊属殺法定刑違憲事件」が本件を考える上でのヒントになるかもしれないとは、個人的には思っている。要は、尊属という特別な関係であっても、法的には平等に扱われる、との最高裁の判決なのだから。

家庭裁判所の決断

今後、家裁から何らかの表明があるかもしれないが、いずれにせよ、今回の1件はモデルケースになる。先述の最高裁の原則に倣った言い方をするなら、こうなるだろう。
「救命が親の信仰や親権に優先する」
ブクマコメに「家裁が1宗教を否定した」とあったが、それにはやや疑問が残る。なにせ、真の当事者は輸血をされた子供本人である。そしてその1歳児が信仰を決められるはずはないのだから。
ただ、やっぱり強権である。今回は初の事例である以上、「救命が親の信仰や親権に優先する」過去の事例が無いし、当然それを明文化した法律がある訳でもない。親の信仰による輸血拒否を「医療ネグレクト」にしてしまう以外、方策はなかったのだろう(前述の通り、強権発動は必要なくらい緊急事態だったのだから)。ただ、家裁がそうしてしまった以上、ネグレクトになってしまうのだが、本当にそれに該当するのかどうかは、まだまだ議論の余地があり、今後の法的手続き次第では、高裁・最高裁判例でひっくり返される可能性は、無くはないだろう。
それでも、こういう判例が出たのは、一つの見解にはなりうる。何度も言うが、あくまでも強権発動なのだから、濫用は慎まねばらないし、Web上の議論よりも、法的解釈の問題を司法の専門家に、また宗教との兼ね合いを、各宗教・宗派の代表に表明してもらいたい、と願う。まずはそこから、そして議論を深める必要があるだろう。
少なくとも医療者側にとってみれば、判例だけではあまりに心もとない。いっそ法的に明文化して欲しいのだが、それはきっとまだ先の話。類似の判例が今後あれば、さらに検討を続けてようやく出る結末だろう。勿論、敢えて触れなかったが、ではどこの年齢で自己の信仰の決定権、責任所在を線引きするのか? という、これまた難題が残っているのだから。

今のところ

今回の事例は、あくまでも一石を投じたに過ぎない。ブクマコメはますます膨れ上がるだろうし、法的その他諸々、解決すべき問題は山積している以上、美談にするには賛同できない。やっぱり、ブクマコメした以上の結論には、ならないのである。
喜ぶべきは、男児が救命できた、その一点のみ。

数え切れない後悔の中
男はいつもいつも変わらぬ結果に絶望した。
だがそうなれることを望むことを起源とする男は
絶望を抱いてもなお理想のみを希望として存在していかなければならない。
それは人間が背負いきれるものではなく。
ゆえに男は英霊として在る。

だからせめて。この子達がその死から学ぶものは
自己犠牲をも含むがむしゃらな救済などではなく。
生への祝福であってほしい。
明日生きていけることを、命があることを喜んでほしい。
大切な人と歩んでいける未来を望んでほしい。
そして見知らぬ哀れな骸に
涙を流せる優しい子でいてほしい。
そう望むのだ。

皇帝龍「STparusu DIGITAL HOME」 “理想の対価”より

*1:2000年2月29日の東大医科研付属病院の輸血拒否訴訟に対する最高裁判決

*2:NATROM先生のエントリ「未成年への輸血はどうすべき?〜エホバの証人」を参照頂きたい。

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