毎度お馴染み、妄言の始まり、始まり。読みます?
求めたら何が与えられるのか?
求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見出せん。
門を叩け、さらば開かれん。
今日でこそ「求めるならただ待つのではなく積極的に行動せよ」と意味で人口に膾炙しているこの言葉だが、元は「神を求めよ。そうすれば信仰が与えられる」ということらしい。現世における即物的な欲求ではなく、ただ神にすがることのみをせよ、という、一神教の真髄を指した言葉であるらしい。…何やら仏教の「他力本願」「悪人正機」に似た匂いがする。洋の東西を問わず、宗教家の行きつく究極論理は、凡そ同じなのかもしれない。
が、一神教が主流ではない日本に生まれ育ち、来世での救いを信じられるほど宗教にも熱心ではなく、“医療”という実に即物的な需要に対し労働供給を行っている(苦笑)、現実結果至上主義の俺は、やれやれどうしたものか。
上記の言葉が新約聖書(キリスト教)の記載であるのに対し、対比させるのが旧約聖書(ユダヤ教)では申し訳ないのだが、「ヨブ記」に至っては与えられるものは“とんでもない試練”である。まぁ元々、裁きの神であるヤハウェへの信仰であるユダヤ教を、「それでは救いがない」といって「慈悲の神」として布教しなおしたのがキリスト教で、だからこそ民族宗教から世界宗教へ発展した訳であるが、いずれにしても“現世は神からの試練”であり、そこに救いはない訳だ。その唯一神に対する帰依を絶対化したのがイスラームであり、ここに“砂漠の一神教”の系譜は現在に至る訳だ。
…私の拙い宗教・歴史講座はここら辺にしておく。結局、現世では求めても与えられたり、与えられなかったりする。救われたり、救われなかったりする。そういう現世での理不尽・不均等を、“来世での救済”システムという概念で均等化・救済を図ったのが「宗教」である…というのは、いやはや即物的過ぎるだろうか?(苦笑)
求めよ、さらば与えん
「神だと?
さて不思議な
この状況でいまだ私に神の鉄槌は下らないではないか
イシュヴァール人が滅びようとしている今になっても神は現れん
いつどこに神は現れ貴様らを救うのかね?
そもそも神とはなんだ?
弱き人間が寄辺が欲しくて創り出した偶像ではないのか?
偶像がこのキング・ブラッドレイを倒すか? 滑稽な」
(中略)
「——そう……
神は人間によって創りあげられた
人の手によるものにすぎん
ならば我々に鉄槌を下しに来るのは神ではなくあくまで“人間”だろうな」
- 作者: 荒川弘
- 出版社/メーカー: スクウェア・エニックス
- 発売日: 2006/11/22
- メディア: コミック
- 購入: 4人 クリック: 31回
- この商品を含むブログ (375件) を見る
結局の所、私が思うに、人間が求めるものを与えられるのは、人間でしかないと思うのである。人間を救えるのは、やっぱり人間でしかないと思うのである。神は救いも試練も与える。それは人間とは違って相手は神だ。価値観を共有できる訳はない。人間の価値観を共有し、相手の求めるものを理解して与えられるのは、神ではなく、やっぱり人間だと思うのである。
だから。“偽善と傲慢の役を任ずる”私としては、神が「求めよ、さらば与えられん。」と仰せなら、それをもじったのを行動のモットーにするのである。
勿論、人間はカミサマじゃないので、求められたからといって何でも与えられる訳じゃない。救いを求められたって、いつだって救える訳じゃない。寧ろ救えない事が多いし、「誰でも救えるの」は、それは最早“最終魔法”の域だ。それをモットーにすることと、それが実際に可能であるかどうかは、また別の問題。“本職”の話をするなら、現在の段階ではどうやったって救えない“医療の地平面”は確実に存在し、いつだってその境界を突きつけられる仕事に、日々疲弊している。だが、嘗ては救えなかった事が、未来も救えないとは限らない。人間は進歩する。誰かを救いたいという願いが、努力を駆動し、僅かな歩みとはいえ、その“地平面”を越えてきたし、願いがある限り、これからもそうして行くのだろう。ならばやっぱり、人間を救えるのは、やっぱり人間でしかないと思うのである。
では、何を求めるのか?
では、「求めよ、さらば与えん」とはいえ、金よこせと言われればはいよと差し出す程、私もお人よしではないのである(藁)。寧ろ、ここがキーだろう。欲求とは、人間の根源である。では、「何を求めるか」によって、その人間の人格なり品格なりを推定することは可能である。
だから、上記のモットーに、さらに下記の言葉をぶつけるのである。
汝や他者の人格を単に手段としてのみ扱ってはならず目的として扱わなければならない
Immanuel Kant
金よこせと迫るなら、それは私をただのATMとしか思ってない訳で、こちらを手段としか思っていない相手の需要に応えるほど、お人よしになる必要もないと思っている。やっぱり、人間はカミサマじゃないので、そこらへんの恣意性は許容されるとは思うが、如何だろうか?