出張中、ずーっと考え込んでいた事案をとりあえず書いてみる。纏まりがあるかどうかは、知らん!(無責任)
何に“復帰”するのか?
初端は、Twitterの下記ツイート。
うつ病やひきこもりなどから回復した人たちが再就職することを「社会復帰」って表現することがよくあるよね。それを見るたびに、仕事してなくちゃ社会の成員としてすら承認されないのか、って思ってしまう。
確かに、「社会復帰」という単語は職業柄よく使うが…反論できる訳でもないが、かといって賛同できる訳でもなく、何か「喉の奥に小骨が刺さったような」引っ掛かりをずっーっと覚えていた。この違和感は何だろう?
まず、「社会復帰」の「社会」をWikipediaで見てみる。
社会(しゃかい Society)は、人間と人間のあらゆる関係を指す。
…まぁ詳細はリンク先を各自お読み頂くとして、要は人間集団の中で他者と関わりをもって生きていく事に他ならない。だから、単に生存しているだけでは、社会の中に在るとは言い難い訳だ(もっとも法整備・社会保障等が確立した近代社会においては、奥深い山中や無人島での単独生活でもない限り、社会からの“完全”隔絶は事実上不可能なのだが)。また、「引きこもり」のように他者との関係との“断絶”や、うつ病を始めとする精神疾患によって他者との意思疎通に“障害”が生じるのが問題な訳で、それら問題が解決(軽快/治癒)し、他者との関係を構築できるようになれば、それこそ文字通り「社会復帰」に他ならない。
であれば、「社会復帰」の定義には必ずしも「就業」の要素は必須ではないことになる。上記ツイート主の「仕事してなくちゃ社会の成員としてすら承認されないのか、って思ってしまう。」という疑問も当然である。事実、定年退職後の高齢者が罹患し、治癒後「社会復帰」するのに「就業」を目指す必要はなく、一般社会で他者との関係を問題なく維持して生活できるようにするのが、リハビリテーションの目標になる。
「腹が減っては戦は出来ぬ」
が、実はここがミソだと思うのだ。なるほど「社会復帰」そのものは「人間集団の中で他者と関わりをもって生きていく」ことに「復帰」することではあるのだが、それを“維持”するためには「お飯食ってかなきゃならん」—経済的にある程度自立しなければならないこと、また「人間集団の中で他者と関わりをもって生きていく」行為の代表例が「就業」であることに、先の疑問の解があると考えるのだ。
前章で定年退職後の高齢者の社会復帰を例に出したが、先のツイートの「うつ病やひきこもり」は、主に就業可能年齢層の問題であることを思い出してもらいたい。「就業」は「人間集団の中で他者と関わりをもって生きていく」ことの支障が解決したことの証左であり、また「社会復帰」状態を維持するための経済的自立のための一手段の回復である、という見方をすれば、「うつ病やひきこもりなどから回復した人たちが再就職することを「社会復帰」って表現する」というのは、妥当な表現なのではなかろうか、と思う訳だ。
なお蛇足だが、上記ツイートへの返事ツイートで
@terrakei 学生が、サラリーマンのことを社会人と呼んでいる。大学は”社会”ではないのだろうか(笑)
2010-10-11 04:43:13 via web to @terrakei
というのがあるが、“就業による経済的自立”という観点から立てば、大学生はその就業のための最後の“準備期間”中なのだから、「社会人」と対比されても妥当なのではないか、と考える。
「就業」は「社会復帰」の必要条件ではないが、十分条件ではある
以上が、上記ツイートに“引っ掛かっていた”自分の違和感に対する「解」である。皆さんは、どうお考えだろうか。
最後に。それを望む方が早く「社会復帰」を達成されることを、願って止みません。というか、そのためにも明日から“通常営業”頑張りますかねぇ(苦笑)。
Appendix
今回のエントリのタイトルの元ネタは、当然「涼宮ハルヒ」のアレ(笑)。まぁでも、要は人間誰しもが普遍的に内在させる欲求だと思います。彼女は、“自我”が人より強すぎただけのこと。