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歴史小咄 明治維新鎮魂術説

…本エントリは医療関連とは全く関係ありません。というより相当人数の読者を“置いてけぼり”にする内容だと思いますが。いかがされますか?

前説の前説

“置いてけぼり”になってしまう理由は、小生の愛読書である井沢元彦氏の著作である「逆説の日本史」シリーズが前提の話だからである。同じくこのシリーズの愛読者でなければ分かりにくい上に、氏の説の“ある個所”に異議を申し立てようというのだから、これ程“無茶苦茶な”内容もないとは思うのだが…しかし、氏の“怨霊信仰”説を支持するからこその異議である、と申し開きをした上で、話を進めようと思う。まぁ、この辺境Blogに氏が来訪されるとは、到底思われないが(苦笑)

前説

で、その異議を申し立てようというのは『逆説の日本史2 古代怨霊編』の第2章「天智天皇編」に登場する。そして、そのその異議から、ある仮説を思い付いたのである。

逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)

逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)

その前に、「逆説の日本史」シリーズの読者でない方の為に、この「天智天皇編」の概略を説明しておく。「Wikipedia:天智天皇」にある通り、西暦672年に病により崩御した、というのが正史である。しかし実は暗殺されたのであり、その原因は白村江の戦いで敗戦した後の外交対処として「親唐・反新羅派(元はといえば白村江の戦いは同盟国であった百済が唐・新羅連合軍によって滅亡し、その復興のため派兵した結果の戦争である)」の近江王朝(天智天皇)派と、「親新羅・反唐(新羅を同盟国としておかないと当時の大帝国唐が新羅を占領した後、次の矛先が日本に向くのは必然であった)」の大海人皇子(後の天武天皇)派との対立で、引いては壬申の乱に繋がった、というものである。天智天皇暗殺説は、実は前述の「Wikipedia:天智天皇」の注釈にもある通り、『扶桑略記』にそのような事を示唆する表記がある一方、正史である「日本書紀」は天武天皇の皇子である舎人親王の編集であり、「扶桑略記」が「日本書紀」よりも信頼性に劣るとは限らない、というのが“逆説”たる所以である。勿論、詳細は是非本書をお読み頂きたい。
だが、小生が異議を唱えるのはここではない。壬申の乱大海人皇子(後の天武天皇)と争った天智天皇の皇子、大友皇子(諡号: 弘文天皇)の件である。そもそも括弧書きで“後の弘文天皇”ではなく“諡号: 弘文天皇”と表記したか。実は大友皇子天皇に即位したか否かは江戸時代から議論の対象だったのである。何とWikipediaにも「大友皇子即位説」と独立した記事があるくらいだ。天智天皇崩御から壬申の乱勃発し敗戦死するまで半年しかない。この間に践祚に関連する儀式を行えたどうかが疑問が残る、また践祚に関連する儀式を行ったと正史には記載が無いというのが非即位説である。即位したか、してないかが問題にされるのは、壬申の乱の意味合いが変わってしまうからである。もしまだ即位していないのなら、壬申の乱皇位継承資格者である大友皇子大海人皇子の継承権争いになるが、即位してたのなら仮令皇子だったとはいえ天皇に対する反逆とその皇位簒奪になってしまう。だから議論の的になる。また「日本書紀に即位の記述が無い」のも、即位してたとすると天武天皇には不都合である以上、天武系が執筆者である「日本書紀」に即位したと記載できる訳が無い。これもまた本書で述べられている“逆説”の一つである。

追諡の意図

著者の井沢元彦氏は即位説をとっている。勿論、“状況証拠”を提示して“逆説”を論じるのが本シリーズの手法なので、やはりこの内容は本書をお読み頂くしかないのだが…。
ここまで来て、ようやく“異議がある個所”に辿りつくのである。「弘文天皇」と追諡したのは実は「明治政府」なのである。明治3年(西暦1870年)に明治政府が追諡を決定したのは、確かな事実であり、別に反論がある訳ではない。問題は、本書に以下の記述があることなのである。

大友皇子が「弘文天皇」と呼ばれるようになったのは、明治政府が「弘文」と諡号を贈ったからだが、なぜそんなことをしたかというと「大友」は皇子ではなく既に即位して「天皇」になっていたはずだと、明治政府すら考えたからである。

井沢元彦 著『逆説の日本史2 古代怨霊編』p.354 太線は小生加筆

逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)

逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)

“異議がある個所”というのは、上記の太線部分である。最初は「なる程そうか」と読み流していた。だが、この章が面白い(というか継体天皇から孝謙天皇までの時代は概して興味深いのだが)ので何度も読み直しているうちに、違和感を覚えたのである。その違和感も、なぜそんな感覚を覚えたのかはっきりしなかったが、明確になったのは、本当につい最近のことなのだ。
要は、江戸時代からずっと論議の対象であった大友皇子の即位・非即位に、明治政府が追諡し「即位した」と結論付けた“根拠”は何だったのか? という事である。調べてみたのだが、不可解な事に“明治政府が追諡した”のは事実なのだが、その“根拠”はどこにも述べられていないのである。前述の「Wikipedia: 大友皇子即位説」には「明治3年に大友皇子即位説が政府公認となったのは、単にそれが当時有力な説だったからである。」とある。
「まぁ、当時有力な方を採ったんじゃないの」と言ってしまえばそうなのだが。果たして本当だろうか?
実は、明治政府が追諡したのはあと2代いるのである。第47代淳仁天皇、第85代仲恭天皇だ。大友皇子と異なり、この2代は間違いなく皇位に就いている。しかし「なら問題ないじゃないか」とはならない。何せ明治政府が追諡するまで、2代とも「廃帝」と呼ばれていたのである(区別するために「淡路廃帝」「九条廃帝」とも呼ばれたが)。大友皇子即位説のように「有力な説を採る」の問題ではないのだ。さらに、この2代が追諡されたのは明治3年(西暦1870年)、「弘文天皇」と追諡したの年と同じなのだ。
明治政府は何故この3代に追諡したのか?

明治天皇崇徳天皇鎮魂

その答えのヒントは、実は他ならぬ『逆説の日本史2 古代怨霊編』の第1章にある。明治天皇即位と「明治」への改元は、崇徳天皇鎮魂のスケジュールに合わせてあるというのである。実は前代孝明天皇崩御されたのが慶応2年(西暦1862年)だが、明治天皇は即座に即位したのではない。確かに翌慶応3年(西暦1863年)に践祚はしている。同じ年に徳川慶喜から大政奉還を受け王政復古の大号令を発している。この段階ではまだ“即位していない”。即位したのは更に翌年の慶応4年(西暦1864年)なのである。そして本書からこの年の出来事を抜粋してみる。

崇徳上皇(天皇)にここまで気を使って、明治天皇は儀式を行っている。崇徳上皇(天皇)に関しては、また話が長くなるので述べないが、自分の皇子が皇統を継げなかったばかりか、保元の乱によって讃岐に配流され、写経を京都の寺に納める願いも拒絶された天皇なのである。『保元物語』によると「舌を噛み切って写本に『日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す』と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている」*1。実際は単に自分の運命を哀しんでいたのみで、もう一人の“大怨霊”である後鳥羽上皇の激しい恨みを重ね合わせて創作されたとも考えられるらしいが、事実配流の原因となった保元の乱の後、平氏による武家政権を経て、鎌倉幕府から江戸幕府に至る約700年にも亘る武士軍事政権の時代が続くのである。途中、後醍醐天皇による建武の新政もあるが、直ぐに瓦解したのは言うまでもない。明治維新を以て、再び天皇中心の政権が誕生した時、武士軍事政権誕生の原因となった“大怨霊”に「許し」を乞わねばならなかったというのが、井沢氏の“怨霊信仰”の論である。

鎮魂によって後顧の憂いを絶つ明治政府の意図

上記の理由によって、まず“イの一番”に鎮魂しなければならなっかったのが崇徳上皇(天皇)だったのだろう。ならば、前述の3代: 即位したかどうか不明瞭な弘文天皇廃帝のままの淳仁天皇仲恭天皇も鎮魂が必要と考えるのが自然ではないだろうか。“怨霊信仰”の視点から見れば、天皇中心の新政権にとって“後顧の憂い”は、“未だ報われていない(鎮魂されていない)”歴代の天皇であった。崇徳上皇(天皇)に許しを乞うても、既に鎮魂された(怨霊ではなく守護神に変わっている)以外の、他の怨霊が天皇中心の新政権に反対では、建武の新政の二の舞に成りかねない。…実際に明治天皇がそう考えていたかどうかは兎も角、少しでも“タタリそうな”場合を片っ端から鎮魂しておき、新政権が瓦解しないようにありったけの予防線をはっておいたのではないか、という考えにいたったのだ。戊辰戦争の真っ最中でも、崇徳上皇(天皇)の鎮魂は必須であった。他の鎮魂は戊辰戦争が完結した(最終戦である箱館戦争終結明治2年(西暦1869年)である)後に順次執り行っていった。だから明治3年(西暦1870年)の追諡となった、とも考えられるのだ。
ならば、明治政府が南朝正統論を採った理由もだんだん怪しくなる。明治天皇(当然今上天皇も)に至る皇統は北朝であり、足利義満によって両統迭立が反故にされた南朝の皇統は途絶えている。南朝の歴代天皇が“怨霊”になる危険があった。だから「正当なのはあなた方でした」と正式に公表することで“タタる”のを回避する必要があったとも考えられるのである。事実、後醍醐天皇の皇子であり後に幽閉され殺された護良親王を祭神とする鎌倉宮の造営を命じたのは明治天皇で、事実命じたのは明治2年(1869年)2月で、同年からやはり南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになっている。実際に拝殿を建設しなければならなかった南朝方の鎮魂が、追諡に先立つのは必然であろう。

筆者の意図は果たして?

以上が小生の説である。もう一度要約すると「大友皇子が『弘文天皇』と呼ばれるようになったのは、明治政府が『弘文』と諡号を贈ったからだが、「なぜそんなことをしたかというと『大友』は皇子ではなく既に即位して『天皇』になっていたはずだと、明治政府すら考えたから」ではなく、未鎮魂である歴代の天皇が怨霊化して明治政府が転覆されるのを防ぐために大友皇子に「弘文天皇」と諡号を贈る必要があったからであり、同じ理由で廃帝2代にも諡号を贈り、南朝正統論を採り関係者の鎮魂を執り行った。明治天皇、というか明治政府が鎮魂を図ったのは崇徳上皇(天皇)だけではなかった、ということである。勿論根拠は少ないのだが、明治2年から3年の短い期間に集中している以上、可能性はあるだろう。肝心なことは、明治天皇自身が“怨霊信仰”に熱心かどうかは分からないが、明治政府の誰か(公卿か?)が鎮魂を発案し、天皇がゴーサインを出した、という事である。仮令迷信だろうと何だろうと、明治政府の運営に支障のある可能性の芽は悉く摘んでおく必要性ぐらいは、考えていてもおかしくはないのではないだろうか。
現在「週刊ポスト」に連載されている「逆説の日本史」シリーズの最新章は幕末なので、明治政府のことはまだ述べられていない。傲慢な事を言えば、ひょっとしたらもう井沢氏はこのことに気付いていて「明治維新編」に書くつもりなのかもしれない。「お前の浅知恵など、とうに気付いているわ」と。まぁ、それはそれで面白いとは思うのだが。結果は、まだ先。その時を楽しみにしていましょう。

*1:Wikipedia:崇徳天皇」より抜粋。

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