- 「『善意の手助け』への複雑な思い」: fujipon先生「琥珀色の戯言」
親切とお節介のborderに一義的なものはない。何故なら、対象者に依るから。同じ“手助け”をしても、「助かりました」と感謝されることも、「余計な事しないでくれ」と文句を言われることもある。そしてそれは障害の有無に関わらず、誰にだって言える事だろう*1。
「障害がある」からといって、逆に「本人ができることには、手助けしてはいけない」のかどうか?
障害があるからといって過剰な神経を使うこともないだろうけど、何かに困っている人を見かけたら、その人が障害を持っているいないに関わらず、助けようとするのが義理人情だろうに。「本人ができることには、手助けしてはいけない」という概念には、迂闊に助けてしまうと生活する上で必要な技術を習得する機会を奪う危険性がある、というのを背景にしているんだろうけど、果たして、この投稿文章中の事例は、その危険があるだろうか? 切符はいつも折り曲がっている訳ではないと思うんだけど。
ただし。それが“手助け”だろうが何だろうが、「自分の意思を無視して勝手にされてしまう」というのは、程度の差はあれカチンと来るものだ。投稿文章中の“通りがかった夫婦連れ”が、男性の意志を確かめもせずさっと切符を手から取ってしまったのはまずかったろうな(本人は親切のつもりでやってるんだろうけど)。一言「苦労されているようですが、代わりに切符を入れましょうか?」と確認をとればよかったのに。
親切というのは相手があってのものだから、あくまでも相手の意志を尊重するべきで、その為の一つの手段が意志の確認をとること*2だ。「お願いします」と言われればやってあげればいいだろうし、「別に要らない」と言われれば会釈だけして去っていけばいい。ただ断られても間違っても「折角助けてやろう(あげよう、と言い換えても意味は同じ)と思ったのに」などと思わないこと。「助けてやろう」と思っている限り、それは親切などではなく、ただの自己の欲求に過ぎない。親切は欲求などではなく、水が流れるが如くに自然な行為(水は自ら流れようと思って流れるのではない、自然の摂理に従って流れる。即ち「自ずから然る」)でなければならない、と思っている。欲求の段階である限り、「それは偽善だ」と揶揄されても否定し切れないだろうから。…いや、「誰かの役に立ちたい」という欲求そのものは、罪ではないんだろうけどなぁ。