“自虐ネタ”に関して思うところがあったので、自分に対するメモ書き程度にエントリを立ち上げておく。
昨年の医局忘年会で壮大な自虐ネタを披露し、教授陣から看護師さん方まで幅広く笑いをとる事に成功したオレだが、自虐ネタを話すにあたり、絶対に死守している項目が一つ、ある。
「相手に笑ってもらえなければ意味は無い」
“対象者の効用を増大させる方向に行動する”を全ての行動の基本概念をしている以上、自虐も相手を笑わせるネタとしての一要素に過ぎず、従ってその意義を達成できないものはネタとして成立しておらず、そんなものを使用してはならない、ということである。
逆に言えば、相手が笑ってくれる以上、当方に肉体的損壊が及ばない限りにおいて、オレとしてはいくらでもネタとして取り扱ってもらっても構わないのである。時々、あまりの自虐っぷりに「辛くないの?」と訊かれることも、ままあるのだが、“対象者の効用を増大させる方向に行動する”概念が達成されている以上、どうして辛いと思わねばならんのか逆に不思議なくらいである。
残念だが大人には二種類あるのだよ自動人形君。泥に汚れて鬱になる者と、泥に汚れた自分を笑える者だ。そして笑える者には更に二種類がある。——誰かにそれを叱られて鬱になる者と、叱られても笑い飛ばせる者だ。…いいかね?
終わりのクロニクル 3(上) AHEADシリーズ (電撃文庫 0920)
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多分、そういう質問が出るのは、そのヒトは“泥に汚れて鬱になる者”なんだろう。だから、自虐に伴う痛みを無理に堪えているように“見える”のだろう。しかし生憎様、オレは痛痒など微塵も感じてはいないし、それを我慢する必要性もないのである。
もし、痛痒を感じるとすれば、相手が笑ってくれなかった時だ。
また、その基本概念上、“卑屈”は実に笑えないのでネタではなく、またソレを公言してはならないのである。“卑屈”とは「最初から自分を負け犬にしてしまい、そこから発する自嘲的な言葉で精神のバランスを取ろうとする態度」であり、対象は自分自身である。そんなマスかき類似行為を公言するほど、オレも破廉恥ではないと思うのだがな。