『呉志 呂蒙伝』の成語である。
今日は小児科超音波画像検討カンファに残る。質問を受けるも見事撃沈。しかしこれが実習の“目的”でもある。
実習とは現場に立つことである。では何のための実習か? 私は3つの目標を立てている。一つは、実技を文字通り“見”習うこと。あわよくば先生からコツを教えてもらえるし、場合によっては実技演習も出来る。二つ目、実際の症例に対して必要な知識を記憶から引き出す訓練。講義や字面を追って得た知識を、“使う”事である。而して記憶の引き出しは覚束無いばかりか、その知識さえ十分ではない。故に答えられずに恥じる。三つ目は、その覚えた恥もろとも不足した知識を脳髄にねじ繰り込むことである。何故ならPapezの回路に代表されるように、感情と記憶は密接に関わっており、また感情を伴う記憶は定着しやすいといわれるからである。
誰だって非難や指摘を受けるのは決していい気分じゃない。寧ろ時に苛立ち、時に凹む。しかしだからといって咆えても泣いても、何も錬成したりしない。居直りは尚悪い。その瞬間進歩は忽ち停止してしまうだろう。
ならば折角自らの欠けたるものが明らかとなったのだ。しかも怒りや哀しみは人間を突き動かす“最凶”の動機付けの一つ。次は非難のひの字も出せないよう、自らの不足を叩き潰せ! 過去の失敗はなかったことには出来ない。不出来な現状は紛れもない事実。而して未来もまた同じであるとは限らないし、またそうさせてはならないのである。